Michel Polnareff - Tout, tout pour ma chérie

 再三繰り返してきた通り、最近は少々触れ辛い内容に踏み込んで参りましたので、今回は趣向を変え、飴玉のように甘く明るいポピュラーミュージックから取り上げていきましょう。ということで、第64回はフランス出身シンガーソングライター・Michel Polnareffから邦題『シェリーに口づけ』で知られる名曲『Tout, tout pour ma chérie』を紹介したいと思いますー!


 御年79歳を迎えたフランスの国民的歌手であるMichel Polnareffは、今もなおフランス国内でコンサート・ツアーを開催したり、ピアノ弾き語りにより蘇らせたグレイテスト・ヒッツ・アルバム『Polnareff Chante Polnareff』を2022年にリリースしたりなど、老いてますます盛んなりと言わんばかりに、現役で活躍しているアーティストです。ちなみに、先日大人の階段をまた一段上った僕の誕生日は、彼と同じ7月3日です──滅茶苦茶どうでも良いですね。


 下らない余談は後にするとして、そんな仏ポップス界の巨星が歩んできた半生について、皆様はどれだけご存じでしょうか……? 「結構詳しいぞ!」という方も「名前くらいは……」という方も、是非僕と一緒に彼の音楽家としてのキャリアを振り返っていきましょう!


 1944年──Michelは、第2次世界大戦下のフランスにおいて、同国のシャンソン歌手・Édith PiafやYves Montandなどの作詞にも携わっていたロシア系ユダヤ人のジャズ・ピアニストの父と、ケルト系ブルトン人のダンサーだった母の間に生を受けます。


 そんな父の影響で幼少期からピアノを学び、英才教育を受けてきたMichelは、息子をクラシックの演奏家にしたいという両親たっての希望で、1949年にコンセルバトワール(パリ音楽院)に入学します。そんな父母の期待に応えるべく、Michelは学校のクラスで1番の成績を修めました。


 しかし、そんなMichelにも転機が訪れます。そう、その当時強烈な異彩を放っていたキング・オブ・ロックンロール──Elvis Presleyとの邂逅です。Elvisの類まれなる音楽の才に心酔したMichelは、次第にクラシックへの情熱を失っていくことに。クラシック奏者として息子を手塩に掛けて育てていたはずの両親はこれを受け入れられず、両者の間には確執が生まれてしまいます。


 1963年──二十歳を迎えようかというところ、兵役を務めますが、およそ半年で退役。一度は保険会社に就職するも、クラシックの道へ復帰するよう小言を重ねる両親との仲は悪化の一途を辿り、遂にはギターを担いで実家を飛び出すことに……。Michelは首都パリで最も高い丘であるモンマルトルの教会堂・サクレ・クール寺院の階段にて路上弾き語りを始めるなど、ヒッピー文化に身を寄せた放浪生活を送ります。


 その後、フランスのレコードレーベル・Disc'AZの代表者であるLucien Morisseに発掘され、以前紹介したハードロック・バンド──Led ZeppelinのメンバーであるJames Patrick PageやJohn Paul Jonesなど錚々たる面々を招聘し、レコーディングを行ったEP『La Poupée qui fait non』で1966年にデビューを飾ると、これが一躍大ヒット! 諸外国におけるマーケティングを意識してか、ドイツ語『Meine Puppe sagt non』イタリア語『Una bambolina che fa no, no, no』スペイン語『Muñeca que hace no』など、それぞれのバージョンをリリースしたリードシングル『La Poupée qui fait non』は特に、Michel Polnareffの名を欧州全土に広めました!


 1stアルバム『Love Me, Please Love Me』がリリースされる頃には、既に我らが日本にまでもMichel Polnareffの名が轟いており、旧来の所謂シャンソンとは一線を画す、クラシックの教養とロックンロールへの愛によって育まれた彼の音楽は「フレンチ・ポップ」として世に親しまれました。


 その後もヒットを飛ばし続け、その多くに邦題が付けられていることからも分かる通り、日本においても彼の人気は鰻登りでした。そして、その人気の火付け役となったのは、日・CBSソニーから新たに派生レーベルとして発足したばかりのEpic Recordsから1971年にリリースされたシングル『Tout, tout pour ma chérie』なのです!


 もう少し遡ると、本国フランスにて1969年に『Tous les bateaux, tous les oiseaux(邦題:追わないで)』のカップリング曲として先行リリースされた当初は『可愛いシェリーのために』と命名されていたようです。ですが、当時はあまり売れ行きが好調ではなく、1971年にシングルとして正式リリースされた際に、前者は『渚の想い出』と名前が改められ、後者も続いて『シェリーに口づけ』という名前で大ヒットを記録しました。ただ、"chérie"というのはフランス語で「愛しい人」を意味する単語ですので、普通に翻訳すれば「すべてを僕の愛しい人に」となります。


 ──では、そのっていうのは一体、誰なんでしょうか……?


 そもそも、この邦題の考案者は、当時CBSソニーに中途入社した、Michel Polnareffよりも2年下のディレクター・高久光雄で、曲中でも繰り返される"Tout, tout"の発音がキスの音に聞こえることに由来するとされています。その他、一説には"chérie"をシェリー・ワイン、または英語の女性名である"Sherry"と勘違いしたという誤訳説も囁かれ、正確な情報は分かりません。でも、一時は人気を得られなかった『Tout, tout pour ma chérie』に日本語で命を吹き込み、日本でのマーケティングを大成功させた高久光雄のネーミングセンスはお手柄でしたね……!


 それでは、曲の方に移っていきましょう。


[Refrain(0:00~)]

「全てを愛しい君へ」(×4)


[Verse1(0:12~)]

「ねえ、僕と一緒においでよ」

「僕の腕に掴まっておくれ」

「孤独で寂しくなるんだ」

「君の声が、君の姿が」

「君が傍に感じられないと」

「だから、おいでよ!」

「僕の傍に来てほしい」

「僕は君のことについて何も知らない」

「名前も、年齢だって」

「それでも君を後悔させたりしない」

「僕は捧げるから」


[Refrain(0:35~)]

繰り返し


 日本人にはあまり馴染みのないフランス語により紡がれた歌詞にもかかわらず、思わず口遊んでしまいそうな語感の良いフレーズと、男性目線で歌われたキザな台詞によるラブソングはカーリーなロングヘアと濃いサングラスがトレードマークのMichelのビジュアルとマッチして、何故日本で記録的なヒットとなったのか自然と納得してしまいますね……!


 とはいえ、1969年にフランスでは鳴かず飛ばずだった『Tout, tout pour ma chérie』が日本では絶大な支持を得た現象について、本人は非常に興味深いと語っております。音楽の好みについても、フランスと日本では国民性の違いが浮き彫りとなっているようですね。


[Verse2(0:47~)]

「大理石の台座の上」

「いつか落ちてしまうかもと恐れてるんだ」

「傍に誰も居てくれないと」

「でも、もし君が」

「僕と一緒に来てくれるなら」

「その時はきっと」

「僕と寄り添い歩み」

「不安から解き放ってくれるよね」


[Refrain(1:11~)]

繰り返し


[Refrain(1:47~)]

繰り返し


[Verse3(1:59~)]

「ねえ、一緒においでよ」

「どうしても君がいいんだ」

「君にあげたい愛が沢山あるんだ」

「君を抱き締めさせてほしい」

「そうさ、僕と来てくれ」

「決して離れないように」

「もう何年も君を待ってたようだ」

「僕の愛しい人、もう何年も泣いていた気がするよ」


[Refrain(2:24~)]

繰り返し


 The Jackson 5を取り上げた第54回の『 I Want You Back』以来、単純明快で純粋なラブソングをお届しました! ある日突然、運命的な出会いを果たした主人公はその相手に決死のアプローチ──その後、根気強い求愛が実を結び、歌詞中の2人は幸せな結末を迎えると。異なる解釈の余地はないかと思いますので、今回ばかりは、僕の歌詞解釈や補足情報など蛇足でしょうかね……。


 流石にこれだけでは物足りないので、恒例の零れ話をひとつ。


 実は大山倍達が創設した空手道・極真空手の有段者であるMichelは、1972年に初来日──日本武道館での公演は大成功に終わりますが、訪日時には東京の空気の汚さに驚き、スタッフに市中を駆けずり回させ酸素ボンベを用意させるなど、破天荒な一面も。


 日本市場の開拓と数々のヒットナンバーを世に輩出した後、米・ロサンゼルスへ移住し、本格的なアメリカ市場への進出を目指しますが、故郷フランスとアメリカの地での生活のギャップに苦しみ、財務担当者による横領が発覚したばかりか、数年間の税金未納が明らかになり、脱税容疑が掛けられたMichelは一時、帰国すれば即時逮捕と言われていたため、ノイローゼ気味になってしまいます。


 その後、正式な裁判を経て晴れて身の潔白が証明されたMichelは、数々の非難の的にされたことによる疲労からか、80年代末にはフランスの片田舎で隠遁生活を送り始めます。そんな彼に追い打ちするかの如く、当時から患っていた両目の白内障の症状が進行し、視力がほぼ喪失した失明寸前状態になっていたことがあるそう。既に表舞台に復帰していた1994年には、目の手術で水晶体が除去され、人工的に作られた眼内レンズを埋め込まれ、手術は無事に成功します。彼の瞳を覆い隠すほど色の濃いサングラスは、白内障により濁った眼球を隠す意図があったとも言われています。


 また、2010年、およそ10年にもわたって交際中だった恋人の妊娠・出産が発覚し、Michelが一児の父となったことが公表されます。当時66歳となっていたMichelと、39歳差のカップルが話題を呼び、ゴシップのネタとして追いかけ回されることに。男児はVolodiaと名付けられますが、その由来は、Michelの父親の祖国・ウクライナでの一般的な男性の名であるVladimirの愛称だそうです。


 しかし、悲しいことに翌年2011年、Michelと男児との間に血縁関係はなかったことが、彼自身のSNSにて発表されます。恋人はMichelに真実を告白した後、男児と共に失踪していた時期もあるようですが、後に和解します。なんと壮絶な人生でしょうか……。


 決して一路順風とはいかなかったMichel Polnareffの歩んできた道のりですが、彼が音楽史に刻んできた功績は色褪せることはないでしょう。それどころか、今なお精力的に活動を行っているMichelの名声は、これからも益々高まっていくものかと信じています。


 如何でしたでしょうか。Michelについて詳しい方もそうでない方も、興味深い話があったのではないかと思います。不朽の名作と共に彼が築き上げてきたキャリアを振り返り、楽しんで頂けた方が居れば嬉しいです。


 では、次回ですが、そろそろ未だ陽の目を浴びぬ若き才能にもスポットライトを当てていくことにしようかと思っています! ご期待ください!


 それでは……!



 †††



 ※本作における改行後の連続する「」内は主に作品タイトルとなっている楽曲の歌詞の一部分又はその翻訳です。今回はMichel Polnareff - Tout, tout pour ma chérieから引用しております。


 ※本作品は、著作権法32条1項に依拠して公正な慣行のもと批評に必要な範囲で「引用」するという形で楽曲の歌詞を一部和訳しております。文化庁は引用における注意事項として、他人の著作物を引用する必然性があること、かぎ括弧をつけるなどして自分の著作物と引用部分とが区別されていること、自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること、出所の明示がなされていることの4要件を提示しておりますが、本作品はいずれの要件も充足していると執筆者は考えております。


 ※カクヨム運営様からも「カクヨム上で他者が権利を有する創作物の引用をすることは可能ですが、その場合は、著作権の引用の要件に従って行ってください。また、外国語の翻訳は書き方にもよりますが、引用にならないと存じます。」という旨の回答によってお墨付きを得たものと解釈しております。


 ※ただし、歌詞原文の全てを掲載することは引用の範疇を越えると思われますので、読者の皆様は紹介する楽曲の歌詞をお手元の端末などで表示しながら、執筆者による独自の解釈を楽しんでいただけると幸いです。

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