3

 その週末の土曜日の、二時という何とも中途半端な時間を須藤紅音は指定してきた。場所はいつも使っている地下鉄の駅から五分程度の場所にあるファミリーレストランだった。


「あ! こっちこっち!」


 店員に案内されるまでもなく、中央に近い四人掛けのテーブル席に陣取っていた須藤紅音が立ち上がる。


「すみません……すみません……」


 周囲の視線が痛い。久しぶりの経験だった。人の目というのはこんなにも強力な兵器となって個人を襲う。特に一人や二人でなく、その空間の全ての目線が集まれば容易に個人の精神なんてものは砕かれてしまうだろう。

 須藤紅音の対面に座ると、笑顔を浮かべてやってきた女性店員にキノコドリアとドリンクセットを注文し、小さなため息をつく。まだゴールデンウィークまでは少しあるが、とはいえ休日の午後。通りを歩く人の数も多い。何かと観光客が増えるタイミングということもあり、店内も日本語以外の言葉が飛び交っている。


「で」


 ずっとあの調子でいくのかと思った須藤紅音は恐ろしく低い声でその一音を口に出すと、視線を向けた美波に向かって自分のスマートフォンを見せた。そこにはLINEの返事がずらりと並んでいるのかと思いきや、青色の髪をしたCGの少女が笑って手を振っているだけだ。


「なに?」

「モデルになって欲しいんだ、美波ちゃんに」

「何の?」

「だからVチューバー」

「だから? 話の繋がりがよく分からないのだけど」

「あー、そういう方向なんだ。分かった。最初から説明します」


 彼女はあからさまに不機嫌な顔を見せると、目の前に持ってこられた大盛りのスパゲッティ・ボンゴレ・アラビアータを食べながら事情を話してくれた。それによると今彼女はパソコンやスマートフォン向けのアプリを個人製作して生計を立てているらしい。儲かっているのかとか、それだけでやっていけているのかという情報は一切なく、とにかくアプリを作っているということだけを話すと、今抱えている案件がもっと自然に見える表情や動きをするVチューバーのモデルとプログラムだそうで、そのモデルに何故か美波を使いたいと彼女は語った。


「何故私なんですか?」

「なぜわたしなんですかぁ? ――ってえらく他人行儀ね。敬語とかいらないし」


 口の端に付着した唐辛子入りのトマトソースが一瞬血液のように見えて、何だか恐ろしい。


「理由は単純。美波ちゃんが好きだから」

「ごめんなさい」

「そんな即答されると困る。けど、今年に入ってからずっと見てたのは知ってる?」

「あなたが見てたら分かるわよ。それも嘘ね」

「ずっとは見てないけど、でも気にしてはいたよ。だって美波ちゃんだけだもん、あたしに“目立つようなことはやめた方がいい”って忠告してくれたの」


 それはあなたが隣の席で目立っていたからよ――という言葉を美波は呑み込む。


「でもその時は全然その言葉の意味って分からなくて。すぐに天才少女って周囲から持て囃されるようになっちゃって、しばらく忘れてたのよね。けど、たまたま趣味で作ったゲームが注目されて、勝手に天才って呼ばれて、次はどんなものが出てくるのだろうって期待されて、でもこっちは好き勝手やってただけだから大人たちが思うようなものなんて出来るはずもなくて、どんどん人が離れていった。中学は親のツテで何とか通信制のとこを卒業したことにしたけど、ずっと家でパソコン叩いてただけだったしね。そんなあたしには友だちなんていない。大人の人は言うのよ――女子高生なら友だちの十人二十人すぐ集まるだろう? ――って。あたし、女子高生じゃないし」


 須藤紅音はそれでも笑顔を絶やさない。まるでそれが決められたプロトコルみたいに必ず最後に目元を綻ばせる。おそらく子ども時代の彼女が必死に編み出した対大人用の兵器なのだろう。自分を守ってくれるのは泣き顔でも怒鳴り声でもなく、この何とも言えない愛想笑いだったのだ。


「あたしはね、知ってるのよ。ほんとは美波ちゃんが天才なんだってこと」


 そう言って彼女が浮かべた笑みは、愛想笑いのそれではなく、悪魔のような優越感と悪戯心の混ざったものだった。

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