第1話 始まる舞台練習

 舞台に向けた練習が段々本格的になってくる。今まではそれほどにも思わなかったが見ていると台本をずっと読み続けている慈代やすよの姿がある。慈代はこの作品の中で、おそらく主役かあるいは主役以上に物語の中心になる役だった。物語の主役はあくまでも晴美はるみが演じるアリサなのだがストーリーの展開からクライマックスにキーになってくるのは慈代の演じるエリコになる。彼女の演技がこの物語の中で大きな意味を持ってくる。


 台本に集中しているときは恵人けいとが話しかけても上の空という感じだ。食事中でも台本のことや役作りのことを考えているときは、目の前から話しかけても聞こえていないほど集中して考えている。

 いつだったか『役を演じている』とか『どんな風に演じようか』などと『演じるなんて言っている段階で違う』と彼女は言った。演じるのではなく『その人になる』のだという。

 今回の舞台では慈代はエリコという主役の妹の役なのだが『エリコを演じる』のではなく『エリコとは私であり、私こそがこの世界で唯一のエリコという存在にならなければならない。私が慈代であってはいけない』そんなことを彼女は言っていた。

 優一としては慈代でいて欲しいところであるのだが、その辺の切り替えはすごいもので、そんなことを言っていても二人でいるときは、普通に今まで通りの慈代だった。

 慈代は付き合いだしてから特に思うようになったのだが、普段家にいるときも、稽古場でも、何かしらストレッチのようなことを常にやっている。別にバレリーナでも体操選手でもないが、座っているときは両足を開脚して頬杖ほおづえをつくような姿勢で台本を読んでいる。そうかと思えば寝転がって、おなかに手を当て、なにか腹式呼吸の練習のようなことをしていたり……

 稽古場で、みんなで発声練習をしても、慈代と晴美、うらら、そして雅也の四人は別格だった。声の音量、活舌かつぜつがきれいで大きい声を出しても、小さい声でささやいても何を言っているかはっきりわかる。

 今回、うららが出演しないのが残念だった。麗は出演者からスタッフまで全員に気を配りいろいろな形でサポートしてくれる。今回、恵人も役として名前はないがマサト(雅也)の友達役で出番があった。セリフもいくつかある。何ということもない会話だが、うららが気に掛けてくれてアドバイスしてくれる。

 慈代も気に掛けてくれているが演出がうららなので直接『役』に関するアドバイスはしてくれない。

 セリフについては『この場合はこう言った方がいい』などという具体的なことは言わないが、こういう言い回しをしたら、こんな風に聞こえるとか、こういう言い方をすると次にセリフを言う人が、どう受け取るか考えて言った方がいいとか、一般的な演技についてのレクチャーをしてくれる。

 家でセリフの練習として慈代が付き合ってくれるときも「できるだけセリフを自分の気持ちに落とし込むようにした方がいいかも」となんだか抽象的なことを言われる。一緒にいるのだから相手役のところを慈代が読んでくれたらいいと思うかもしれないが、人のセリフを慈代が読んで練習していると本番で演じるときイメージが違って演技がチグハグになるかもしれないという。今のところ恵人にはそこを意識しなければいけないほどの演技力はなかったのだが……

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