《五話:八月の空を、見に行こうよ》
校門がわずかに開かれていた。
人ひとりが、ようやく通ることのできる程度の隙間だった。
「開いている……」
どちらからともなくそう呟く。
必死だった僕たちは、息が切れていることにさえも気が付かない。
しんと静まり返る校舎に、僕たちの息遣いだけが響く。一段、二段と階段を駆け上がっていく。
屋上はすぐそこだった。
最後の踊り場を折り返したところで、凪が立ち止まる。
「あたしは、ここまでっ」
それ以上の追求は許されない――表情が物語っていた。
「二人で話すべきだと思う。あたしがいたら、波ちゃんは、本音を隠すだろうからっ」
「凪……」
「あはは、そんなに不安そうな顔をしないで、づっくんっ。きっと大丈夫だからっ」
「……分かった。きっと、凪の力が必要になるはずだから」
「いってらっしゃい、づっくん! 波ちゃんを助けてあげて」
凪に背中を押されて、最後の階段を駆け上がる。
そして、勢いよく重たい扉を開け放った。
扉を開けた先――屋上で、波は、静かに街明かりを眺めていた。
すでにその体は半分近くが消えていて、空間に溶け始めていた。
体の向こう側で、この街の夜景が残酷なまでに美しく輝いている。
終わりが迫っていることは、一目瞭然だった。
こちらを一瞥することも、振り向くこともせずに、彼女は言った。
「何をしに来たの?」
ひどく冷め切った声だった。
「助けに来た」
「…………」
「おい、聞こえなかったか? 助けに来たんだ」
「……何を言っているの?」
ようやく振り返った波。表
情はまるで抜け殻だった。
全てを諦めた上で、それを受け入れたような、そんな表情だった。
僕は知っている。僕はこの表情を、知っている。
これは、いつかの僕――かつての僕と同じだ。
涙さえ流れない絶望がある。
深い暗闇に飲み込まれてもなお、必死で争い、もがき苦しんだ末に堕ち着く場所。
果てのない底。そこに待っているのは、絶望なんて優しいものではない。
虚無だ。底なんてものは存在しないのだ。
人は、どこまでも、堕ちていくことが出来る。
やがて堕ちていくことにさえ慣れてしまう。
感じなくなってしまう。壊れてしまうのだ。
立ち尽くす波。
そんな表情でさえ美しく見えた。
悲しみを帯びた表情が、むしろ、繊細な顔立ちをより一層際立たせている。
美しさとは、哀しい事なのかもしれない。
「豊四季波を、この世界からは消させない」
僕が歩み寄ると、波は後ずさる。
初めて出会った、入学式の日とは全く反対の構図だった。
「こないで……」
拒絶。
圧倒的なまでの否定。
それでも、足は止められない。
「いやだ……いやだ……」
心が痛む。
あの疑問が――凪の問いかけが脳裏に浮かぶ。
『あたしたち、ほんとうに、正しいことを、しているのかな』
それでも僕たちに、立ち止まることなど許されない。
逡巡する時間さえ……そもそも選択肢さえも、与えられていない。
「いやだ!」
地面に向かって、叫ぶように僕を詰る。
「これが最適解! これが一番いい選択肢! だって、私には次があるんだから!」
駄々をこねる少女のように言う。
俯く顔を五月雨のように落ちる前髪が覆い隠した。
「これでいい……これでいいの……」
言い聞かせるように。
けれども、わずかに語尾が震えたのを僕は聞き逃さなかった。
揺れる感情があるのなら、まだ大丈夫。
そのわずかな震えは、救いを求めて伸ばされた手のようにも見えた。
差し出されたのならば、僕たちは掴むことを許されるだろうか。
「だから、だから、」
未だ下を向いて諦めの言葉を口にする波は気が付かなかった。
僕が既に触れられるほどの距離まで近付いたことを。
俯いた顔を優しく、右手で上に向かせる。
触れられて、ようやく間合いを詰めた僕を認識した波は、ハッと体を強ばらせた。
さしもの彼女でも、もう遅い。
「――……っ」
強引に唇を重ねる。
大丈夫。間に合った。
次第に彼女の体には、現実感が戻っていった。
色を、暖かみを、表情を、取り戻していく。
しかし、波は「信じられない」といった表情を浮かべる。
わなわなと唇が震え、頬には涙が伝った。
握り締められた拳がぐっと握られる。
「なに……を、するのよ……! ねえ……!」
「豊四季波を、この世界からは消させない」
「だから!」
語気を強めた波。
それでも僕は、負けじと声を張り上げて、応える。
「だから、じゃないんだよ」
鋭い眼差しが刺さる。
僕も視線は外さない。今度こそは、目を逸らさずに言う。
「お前はアホなのか? それとも馬鹿なのか?」
「な、に……」
「どうして、全部を自分で決めるんだ。勝手に納得するんだ。諦めてしまうんだ」
「だから……それは!」
「僕たちの幸せを、お前が勝手に決めるなよ。何様のつもりなんだ」
聞いて、彼女は目を逸らしてしまう。
そうはさせない。
僕たちが――僕と凪が向き合ったように、僕と波だって。
視線を逸らさせまいと強引に彼女の肩を掴み、その目を覗き込む。
「やめて……」
目を背けようと必死で争う彼女の力は相も変わらず強靭だったが、しかし、僕にも意地がある。
もしかしたら、この日のために鍛え続けてきたのかもしれない。
「ふざけるな! こっちを見ろ……! 向き合え!」
思いの強さ……だろうか。
これまで、一度だって上回ることのできなかった彼女に、今だけは優位に立つことができた。
「お前の都合で僕たちの人生に関わってきたんだろう! 投げ出すなんて無責任だ。
そんな風に遺された僕たちが、お前が消えただけで、本当に幸せになれるとでも思うのか?」
両手で耳を覆う波。
しかし、それを強引に、引き剥がす。
「答えろ、豊四季波」
「……っ……っ」
波のしゃくり上げる声が、満月の浮かぶ夜の屋上に響いた。
地面に蹲り、肩を震わせる波は弱々しい。
そんな姿を見て、僕は思った。ただの女子高生じゃないか、と。
それはそうだ。
どこまでも圧倒的で絶対的な彼女だから、つい忘れてしまう。
けれど、そんなことはない。
どこにでもいる十六歳の女子高生でしかないのだ。
永遠を生きるという数奇な運命を背負わされた、悲しい少女――悲劇のヒロインでしかないのだ。
弱々しく佇む彼女を、そっと抱きしめる。
こんな僕でも、せめて震える肩を落ち着かせることぐらいはできるだろうか。
せめて、癒えることのない苦しみに、ほんの少し寄り添う事くらいはできるだろうか。
わずかな安らぎを与えることは、できるだろうか。
あの日、彼女は僕に対して「寄り掛かったらいい」と言った。
同じように彼女だって、僕に寄り掛かったらいいのだ。
「もう少し、僕たちを信じてはくれないか」
溢れる涙は止まらない。
「僕も凪も、波のいない日常なんて、もう耐えられない」
「うぅ…………」
「確かに、波には次の世界線があるのかもしれない。
またやり直したらいいのかもしれない。
けれど、僕たちには、そんなものは存在しない。
こればかりは、どうしようもない現実だ。
たぶん、受け入れることしかできないのだと思う」
「……」
「僕たちには分からない。どれだけ考えても。
たった十六年しか生きていない僕たちに、永遠を生きる波の苦悩や絶望なんて分かるはずがない」
穏やかな声音で僕は語り続ける。
「でも、だからこそ、知りたいと思う。
こうして巡り合えた奇跡には、必ず意味があるはずだから。
波を知るための努力は惜しまない。僕も凪も、そう決めたんだ」
「うう………………」
「八月の空を、見に行こうよ」
「うああああああああああ――…………」
慟哭。
次から次へと溢れる涙を、僕は受け止める。
あの大きく透き通った瞳は、今や見る影もない。
瞼は腫れ上がり、瞳は赤く充血している。
他に言うべきことはなかった。想いを紡ぎ、言葉に出来たから。
しばらくの間、そうしていた。
火照った体と感情を、夜の風がそっと冷やしてくれる。
小説の頁を捲るようにおだやかに、撫でるように流れていく。
幾許も無い時間が流れると、僕と波とを優しく包む感触があった――凪だった。
「ごめんねっ、波ちゃん……ありがとうっ」
「ごめんねぇ……凪…………」
再び泣き出しそうになる波の唇に、ぴっと指で触れた凪。
「もう泣かないで……? あたしは、波ちゃんと笑っていたいからっ」
笑顔で言った。僕たちの辺りには、花畑が広がる。
それは、凪が作り出した世界。
どんな罪さえも赦してしまう、包み込まれるような場所だ。
見えるはずもない花々に、その笑顔に、僕と波はいつだって救われている。
「……ありがとう……、ありがとう……」
絞り出すような感謝の言葉。
僕たちが欲しかったのは、謝罪の言葉ではないはずだから。
僕の役目はここまでだろう。
僕と波だけで交わす言葉あるように、波と凪だけで交わす言葉があるはずだ。
これからのことは少しずつ話し合っていけばいい。
そっと二人から離れて、屋上を後にした。
もう一度、振り返る。
笑いながら、頷き合う二人を、月と街明かりがやさしく照らしている。
とても幻想的な世界だった。
やはり、この二人は笑顔が一番似合うと思った。
空を仰いでみても、街が明るいせいで星空は見えない。
それでも、さきほどと変わらずに月はそこにいて、輝いている。
何もかもが変わっていく――変わらずにはいられないこの世界で、それだけは唯一変わらない、確かなものだった。
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