《三話:やがて、僕と凪との境界線が霞んで見えなくなるその瞬間まで》

 落ちていく夕陽を見送ったあと、一度着替えてから凪の部屋を訪れた。

 これからのことを話し合うためだった。


 数年ぶりに入った凪の部屋は、懐かしい匂いがした。

 やはり、あの体操服の匂いは、新品のプラスチック臭ではなかったみたいだ。


 真っさらな机の上に一冊のノート――日記らしいものが佇んでいた。

 表紙には『20XX年4月〜』と書かれている。どうやら、高校に入ってから始めたものらしい。

 何が書かれているのか死ぬほど気になったが「み、見ちゃだめ〜っ」と机の奥底に隠されてしまった。

 凪にもプライバシーがあるのは重々承知しているが、気になるものは気になる。

 文句でも書かれていようものなら、多分、立ち直れない。


 部屋をぐるりと見渡す。

 高い本棚を埋め尽くす小説たちも、あの頃と変わらない。

 凪の読んだ本すべてに目を通したつもりでいたけれど、知らぬ間にいくつか僕の知らないタイトルが加わっていた。

 今日は何か借りて帰ろう。

 思えば、僕がロマンチストになったのは、凪に勧められるがまま、恋愛ものの小説を読み耽ったことが一因かもしれない。


 ベッドサイドに寄り掛かり、本棚に収納された小説の背表紙を見るともなく眺めていた。

 淹れてくれた紅茶のお陰で身体が少しずつ暖まる。

 無言でそれを啜りながら、僕は茫洋と考える。


 ――いつか全てが終わった時、この日々を小説に記す事も悪くないかもしれない。


 凪が何かを日記へ認めるように、僕は小説の中に、物語として刻む。

 別に小説でなくも構わないのだけれど、やはり僕と凪の物語に小説は欠かせない。

 小説の貸し借りがなければ、僕たちが繋がることはなかったはずだから。


 

 しばらくして僕は、波との『契約』について訥々と話した。

 包みかさずに、全てを明かした。

 凪はそれを、咀嚼するように、ゆっくりと飲み込んだ。

 瞳を閉じて、思いを巡らせる。

 おだやかな横顔だった。

 それから、紡ぎ出される言葉。


「波ちゃんは大切な友達だから。とても、とても、大切な人だから」


 胸に手を当てて、まっすぐに、僕の目を見据えて言った。

 そして、『契約』は続けていくべきだ、と。

 三人で進む道は、きっと険しいものになるはずだ。

 綱渡りのような道で、簡単に切れてしまうほど脆く繊細な糸の上を歩くようなものだ。

 雲をも掴むような途方もない道を行こうとしている。

 それでも、僕たちは、波と共にありたいと思った。

 こんな僕たち二人に踏み込んで来てくれた彼女への想い。

 許されるなら、これからの時間も共に刻みたい。


 しかし、僕は波の気持ちに応えることはできない。

 そんな僕と毎日のように『契約』を続けることには、きっと想像も及ばないほどの苦痛が伴うはずだ。

 凪への負い目も感じるだろう。

 でもそれは、僕にしても、凪にしても、同様だ。

「嫌じゃないか……?」

 問うてみても、凪は、何でもない事のように、

「ううん。波ちゃんのためだからっ」

 と、言う。

 きっと、凪ならそう言うだろうと思った。

 誰よりも優しく、他人の事を大切にできる。

 そういう人だからこそ、僕は凪を好きなのだ。

 

「でも、づっくん。正直に言っていいっ?」

「どうした?」

「不安だよ……少し妬けちゃうかもっ……」

「凪……」

 今の僕たちは、言いたいことを飲み込んで、我慢するだけの関係ではないから。


「こんな自分が嫌だよ……づっくんっ……」


 小さく囁いた凪は、そっと僕の胸に顔を埋めてくる。

 まるで、僕の心臓の音を聴こうとするみたいに。

 僕は、その身体を抱き寄せる。

 小さくて柔らかい。

 嗚呼……、凪はたしかにここに存在するのだな、と当たり前のことを思った。


 寄り掛かったベッドがわずかに軋み、呼吸が乱れる。心拍数が尋常ではない跳ね方をする。

 シャワーを浴びたばかりの凪から香るシャンプーと淹れたての紅茶の匂いが混ざって溶けていく。


「ドキドキ……音が鳴ってるねっ……づっくんの心臓の音だっ」


「凪……顔が赤い……」


 僕を見上げる瞳が余りにも艶っぽく、理性を保つことは難しかった。


「――……」

「んっ……」


 初めて触れた凪の唇。

 その感触に、僕は溶けそうだった。

 もう離せるはずがない。

 理性が吹き飛びそうだ。

 何度も求めてしまう。


 それは、凪も同じだった。

 長い時間を掛けてようやく結ばれた僕たちが、たった一度触れ合っただけで気が済むはずがない。

 これまで募らせ続けて溢れた感情を、想いを、愛を――何度も、何度も、何度も、ぶつけ合う。


「……凪、ダメだ、これ以上続けたら、もう我慢できない」


 必死の思いで凪から離れようと腕を振り解くも――凪はそれを許さなかった。


「いやだ……離れたくない。不安だよ……づっくんを、信じさせてっ……」


「なぎ……」


「いいんだよっ? づっくんとなら、この先もっ……覚悟なら、とっくの昔に――……っ」


「………」


 凪の方から求めてくる。

 今の僕たちに、この激情を抑えることは、無理そうだ。


「凪パパに殺されるよ……」


「大丈夫っ……パパもママも、今日は遅いからっ……」


 それを訊いた僕は、電灯のリモコンを手繰り寄せ、灯りを消した。

 僕たちは、抑えることなど到底出来ない感情に溶け込んだ。

 結実した想いに包み込まれ、互いを窒息させてしまいそうな程に求め合う。

 相手の体温に、ただただ身を委ねる。

 全身で受け止める……この瞬間を。

 生の息吹。

 それぞれが、今この瞬間、この世界に存在している事を確かめ合う。

 未だに知らない相手を知るために、自分さえ知らない自分を知ってもらうために。

 醜い自分自身さえも曝け出して。

 撫でて、奏でて、重なっていく。

 やがて、僕と凪との境界線が霞んで見えなくなるその瞬間まで、淡い旅路を駆け昇った――。



 泡沫の時が流れる。

 幸せが満ちるこの場所で、明日のことを話す。

「明日、三人で話そうねっ」

 腕の中で、凪が心細そうに言う。

「大丈夫さ」

 そっと、頭を撫でながら言う。

 これまで手を触れることさえ臆していたというのに、たった一日で随分と進んでしまったものだ。

 不思議な感慨に浸る。

 未だに凪がこの腕の中にいる事実が信じられない。

 夢ではないよな――と不安になって、もう一度強く抱きしめる。

「大丈夫だよっ、あたしはずっと、ここにいるよっ。づっくんのこと、信じているっ」

 どうやら、本当に夢ではないらしい。

 そこには、かつての欲しい時に欲しい言葉をくれる凪がいた。


 僕は、凪の欲しい言葉を、届けられただろうか……。

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