《二話:過去でも未来でもなく、今、君と――》

 雨に濡れた体を拭く時間さえも惜しかった。

 波を残した屋上から駆け出して、凪のもとへと向かう。

 雨は弱まるどころか、むしろ先ほどよりも強く降り注ぐ。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。向かい風が僕の行く道を阻もうと、それを跳ね除ける力が今の僕にはあった。


 不思議と、凪のいる場所が分かる。

 凪に会いたい。

 今は、それだけだった。

 会って、言葉を交わして……叶うなら笑い合って、君を感じたい。

 それが僕の生きる意味だから。


 あの日、あの時――君と《約束》を交わしたあの公園だった。

 僕に対して、未だに何かを期待してくれるのならば――

 あの頃に戻りたいという想いが、少しでも凪の中に残っているのならば――

 きっと僕たちの足跡が溢れたこの場所を訪れるのではないかと思ったのだ。


 何の変哲もないどこにでもあるブランコだけど、しかし、そこには僕たちの全てが詰まっている。

 ゆるりと揺られ、たゆたいながら、たくさんの時間を過ごした。

 取り留めのない事やこれまでの事。これからの事。楽しかった事や嬉しかった事。悲しかった事。


 キラキラとした輝かしい思い出の満ちるこの場所は、紛れもなく僕たちの足跡と言っていい。

 僕たちがあの頃を振り返る時に、真っ先に脳裏に浮かぶのは、ここから見た景色。

 だからこそ、この場所に凪がいるのではないかという、限りなく確信に近い予感があった。


 そして、その予感は正しかった。

 雨に打たれ、全身をずぶ濡れにしながら、ブランコの上に佇む凪が、そこにいた。

 濡れた前髪が垂れる。

 表情は伺えない。

 ざく、ざく、と濡れた地面を一歩一歩、踏みしめながら、凪の元へ近付く。

 水溜りなど構わずに。最短距離で、凪の傍へと歩いていく。

 足音が近づいても、なお、凪は顔をあげなかった。


「凪……」

「……づっくん……どうしたの……?」

「風邪引いちゃうから……」

 しかし、ポケットにハンカチはなかった。

 波に預けたジャケットに入れてある。

 僕の手は、宛所を失くした。

「大丈夫だよっ」

 弱った凪の姿。心が痛む。

 傍にいたい。抱きしめたい。

 けれど、凪は僕を強く拒んだ。


「大丈夫だからっ!」


 これほどまでに強い意志を伴った凪の声を聞くのはいつ以来だろう。

 ドン底に堕ちた僕を救い上げてくれたあの時まで遡るかもしれない。

 僕の傍にいる――そう誓ったあの時と同じ決意に似た信念。


「違うんだよ凪、事情があって……」

「事情って……? 事情ってなに……?」

「信じられないかもしれないけれど、あれがないと波はこの世界から消えてしまうんだ……波のために、必要なことなんだ……だから……だから」


 言葉を上手く見つけられない僕に、凪は、涙を浮かべながら大きな声で言う。


「信じるよ! づっくんの言う事なら何だって! 信じたのに……!」


「凪……」


「信じるに決まっているじゃん……どんな事だって信じるよ……

 あたしは、ずっと、づっくんを信じてきた……

 それなのに、どうして言ってくれなかったの……?

 どうしてあたしを信じてくれなかったの…………」


「違う……ごめん……僕は、僕は……凪を泣かせたくこんな事をした訳じゃ……」

「分かっているよ……それも分かっているよ……づっくんはいつだってあたしを……ぅぅ……ごめんねっ……意地悪を言って……」

 雨は降り止まない。


「でも、それだけじゃないでしょう? づっくんは、波ちゃんのことが、好きなんだから……」


「凪……違うんだ」

「あたし、狡いからさ、波ちゃんへの気持ちに気が付かないフリをしていたの。でも、それがづっくんの幸せならって……」

 嗚咽まじりの涙声。


「でも、やっぱり嫌だった。耐えられなかった。だから遠ざけたの。

 近くにいると分かっちゃうから……

 波ちゃんへの想いに気がついて、

 戸惑うづっくんが……それが辛くて逃げたの……あたし……」


「ちがう、違うんだ……僕は……」

 寂しげに笑う凪。


「あたしたち、出会わなければよかったのかな…………」


「なんで……凪……」


「もういいんだよ、づっくんっ。

 あたしに縛られなくたって。あたしたち……もう充分に頑張ったでしょ?

 道はここで別れるかもしれないけれど、それでも今は、こうして笑っていられる。

 会えなくなるわけじゃない」


 全然……全然だよ。今の凪は全く笑えていない。

「そうじゃない……」

「ありがとう、づっくん――あたし、幸せだった。後悔なんて、一つも、ないよっ」


 そうして、感謝の言葉と僕を、公園に置き去りにしたまま立ち去ろうとする凪。

 足音が遠ざかる。触れられるほど近くにいたはずなのに、手のひらから、溢れ落ちていく。

 どん底にいた僕を救ってくれた、あの日と同じだけの覚悟を持った凪。

 その意志を、果たして、ねじ曲げてしまっていいものだろうか。

 逡巡する。いつだって、迷い惑う僕たちだった。


 これで終わりなのか……?

 頑張ったのか……?

 幸せだった…?

 後悔はない……?


 視界がぼやけ出す。

 これまで共に歩んだ時間の断片たちが、走馬灯のように駆け巡る。

 流れる涙。これまで凪と過ごしてきた日々。辛いこと、悔しいこと、惨めなこと。

 そして、そんな時間を上回るほどに幸せだった二人の時間。

 泡沫のように、浮かんでは消えていく。

 瞬いては散っていく、二人の記憶。思い出。



 僕は、幼き日の情景を思い出していた。

 雨上がりに、夕陽が輝くこの場所で、僕たちは――。


 僕たちは――……。


 その中では、無邪気な子供達が、《永遠》を誓い合って笑っていた。

 夕陽のオレンジも、水溜りに反射する空も、笑顔から覗く白い歯も、何もかもが光り輝いていた。

 これから訪れる未来を、共に歩いて行こうとする僕たちがいた。


 過去でも未来でもなく――今、君といたい。


 それだけのこと。

 難しいことではない。

 簡単すぎるくらいのことだ。

 そのたった一言を紡ぎ出すために、僕はここにいる。


 難しい言葉を重ねて、過去に意味を、理由を探していた。

 それで結局、見失った。

 それは、凪も同じ。

 たくさん傷付いた僕たちは、いつからか臆病になってしまった。

 強くなくてはならないという使命が枷となり、かえって僕たちを弱くした。

 けれど、傷を知った僕たちは、それだけ強くなれたはずだ。

 いつまでも、立ち止まってはいられない。


 背中を押してくれた波の想いに報いるためにも、もう一度、僕は――。

 過去でも未来でもなく――今、君といたい。

 それを伝えるのだ。


「凪――!」


 愛する人の名を――。

 大きな声で、強く、強くその名前を呼ぶ。

 好きで……大好きで……愛している人の名を強く、強く。

 この世界のどこにいようと、届くほどの大きさで。

 

「凪……!」


 もう一度。驚いて振り返ったその顔を、瞳をまっすぐに見つめながら――……。


「君のことが、好きだ。この世界の何よりも、大切だから。

 過去でも未来でもなく――今、君といたい……!」


 僕の言葉を静かに受け止める。

 一瞬だけ目を見開いたかと思うと、やがてすぐに両手で顔を覆い、その場にへたり込む。慟哭が響いた。

「づっくん……うう……づっくん……うぅぅ」

 駆け寄って抱き締めた。

 壊れてしまいそうなほど強く、それでいて脆く繊細なものを扱うようにやさしく。

 腕の中に収まる凪はとても小さくて、軽かった。

 愛する人の大きさと重さを知った。

 愛おしい。

「づっくん……あたしも、大、好きだよ……ずっと、ずっと、これ、からも……」

 泣きじゃくり、声にならない声。

「づっくん……うううううう」


 これ以上、絞り出すことはできない。

 言葉など必要がなかった。口にする必要はなかった。

 ただ、お互いの存在を感じ、求め、抱きしめ合うことだけで、充分過ぎるほどに分かり合う事ができた。

 痛いほどに凪の感情が伝わってくる。

 いまだ震えの止まらない肩、泣き腫らした瞼、昔から変わらないシャンプーの匂い。

 もう二度と離さない。

 ぐすん、と鼻を啜ると困ったように言う。

「ごめん……泣いちゃった。『強くいようって、約束したのにね』」

「もうあの《約束》は、必要ないよ」

「必要ない……?」


「泣きたいときに泣くことが、欲しいときに求めることが許されない……

 そんな《約束》は破り捨ててしまおう。窮屈なだけだ。

 僕たちは、もっと自由になれるはずだから」


 僕の言葉の意味を図りかねた凪。不安そうに首を傾げる。そんな様子がおかしくて、ふふ、と微笑みがこぼれ出した。もう一度、腕に力を込める。

「大丈夫だよ、安心して。破れてしまったら、何度でも《約束》しなおせばいいんだ」

「うん……」

 何度も、何度も、噛み締めるように頷く凪。

「凪のことが好きだ」

 言葉にして伝えたいと思った。

「……?」

 キョトンとする凪に、もう一度……。

「凪のことが、好きだ」

 かあー、っと顔を高潮させる凪。それでも、同じように、応えてくれる。

「あたしも…… づっくんのことが、好きっ」

 微笑む凪を見て、また笑う。

「ど、どうして、笑うの?」

「幸せだなと思って」

 本当に。心底、そう思った。


「へクション」

「くしゅんっ……」

 同時に出たくしゃみがおかしくて「あははは」と笑い合う。

「帰ろうか。風邪を引いたら大変だ」

 どちらからともなく手を握る。小さなこの手を、もう離さない。決意を新たに、歩き出す。

「あ、ううん、やっぱり、違うかも……」

「うん? どうした?」

「づっくんのこと、好きじゃなくって……」

 えっ。好きじゃない……?

「大好きっ」

 今度は照れることなく、はっきりと、真っ直ぐに。

「僕も、凪のことが、大好きだ」


 手を繋ぎ、好きを囁きながら家路につく僕たちを、あの日と同じ大きな夕陽が照らしていた。

 あれほどまでに強く降っていた雨はすっかり上がり、重く分厚い雲は遥か彼方へ流れていった。

「きれい……」


 呟いた凪の瞳には、きっとあの日と同じ景色が広がっている。

 僕も同じだった。

 こんな景色や時間を、これからも一緒に刻んでいけたらいい。


 それにしても、美しい夕焼け空だった。思わず足を止めてしまうほど。

 今日この日、この場所で君と見た夕焼けを、永遠に忘れることがないように、僕たちは、地平線が太陽を隠してしまうまで、いつまでも、いつまでも、それを眺めていた。

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