《一話(後編):かつての《約束》、今の『契約』。僕たちの未来。》

 ガチャンと重たい扉が開く音がした。はっとして、振り返る。


 ――そこに、凪が立っていた。


 時が止まる。

 雷号が轟いた気がしたけれど、余りにも心臓の音が煩くて、もはや僕の耳には届かなかった。

 三人が等しく息を飲み、言葉を発することができなかった。

 何を言ったらいいのか、まるで分からなかった。重たい静寂が屋上を覆った。


 どれだけの時間、僕たちはそうしていただろう。


「……凪、これは……これは……」


 沈黙を破り、口を開いたのは波。

 しかし、言葉の接ぎ穂が見当たらない。

 意味をなさない釈明の言葉が、屋上を彷徨った。

 何を言うべきだろう。

 口の中がざらついた。

「そっかあ〜……そうだったんだねっ」

 この状況には、不釣り合いな明るい声で凪は言った。

「……そっかあ〜……あははは…………ごめんね」

「ちがう、ちがうんだ、凪……これは……」

「ごめんっ……」

 最後に小さく謝ると、逃げるように立ち去っていく。


 追いかけなくちゃ……。

 思うよりも先に体が動いていた。

 僕も駆け出そうと試みるが、

 しかし、それを制止する腕があった。

「わるい波……凪を追いかける」

 振り解こうと、手を払う……が、再び強い力で、掴まれた。

「おい、なんのつもりだ? 離せ!」

 もう一度、解こうと力を込めるが、微動だにしない。

 そして、波は問う。


「追い掛けて……どうするの?」


「全部話すよ。それしかない」


「『契約』のことを? 冗談にもならない。なぜこれまで隠してきたのかを考えて」


「それはそうだけど……でも、こうなった以上は仕方がないだろう」


「無理……そんなこと……!」


「いいや! 凪なら分かってくれるはずだ」


「そんなことはない……!」


「だとしても! 今は!」


 今するべきことは、やらない理由を探すことではないはずだ。


 なり振りかまってなどいられない。

 ここで立ち止まった時間の分だけ、凪が遠くへ離れてしまうのだから。

 物理的な距離と同じように、心の距離さえも。

 だから行くべきなのだ。

 今すぐに。


 それでも、波は、掴んだ腕を離そうとはしなかった。


「――……ないで」


 俯き、呟くように何かを言った波。

 聞こえなかったのか。

 もしかしたら、僕が聞こえないふりをしたのかも、分からない。


「…………え?」


「行かないで……そう言ったの…………」


 それは、この日々の中で、僕が何よりも求めていた言葉。

 そして同時に、何より聞きたくない言葉だった。

 聞いてしまっては、もう元には戻れない。

 そんな言葉だった。


 時を同じくして、空からは、大粒の雨が落ちてきた。

 恵の雨になるはずだった。惑い迷う僕たちに、せめてもの言い訳を与えよう、と。

 頬を伝うそれを、これまでの僕たちならば、

「これは雨」

「これは『契約』」

 と、言って誤魔化すことが出来たはずだ。

 そうすることが、あるいは正解だったかもしれない。


 されど、溢れ出した感情は、もはや、とどまることを許してはくれなかった。


「私は、どうしたらいいの……? もう、とっくに気が付いているはず! 私は、あなたのことが……あなたのことが……」


「波……! その先は……!」


 その先に続く言葉を遮ろうと僕は叫ぶ。

 それ以上は取り返しがつかない。



「あなたのことが好きなのに……!」



 溢れた言葉。

 それは、触れないようにしてきたもので、知らないふりをしてきたもので、目を背けて蓋をして、隠してきたものだ。


「どうして……? 何度繰り返しても、どんな世界線でも、あなたを好きになってしまうの……どうして……」


 悲痛に歪む波の顔。その瞳に浮かぶのは、僕が目を逸らし続けてきたものだった。

 『契約』のあとに浮かぶ、どこか哀愁を帯びた寂しい表情。


「傍にいて欲しい。未来を見せて欲しい。あなたしか、いないんだよ。私には、あなただけなのに……」


 弱々しく雨と涙で頬を浸しながら縋る波を、眺めることしかできなかった。

 掛ける言葉も見当たらず、抱きしめる事もできない。

 ただ立ち尽くすばかりだった。

 これは紛うことはない。

 徹頭徹尾、僕が招いた罪の報いだ。

 曖昧にして、言葉を濁して、答えを先伸ばし続けた僕が招いた結果。

 両手で僕のジャケットを掴み、胸に顔を押し付けながら、叫ぶように彼女は言った。


「《約束》なんて曖昧で不確かなものよりも、『契約』という確かな今を信じてよ……」


 過去の《約束》

 現在の『契約』


 それらは、果たしてどちらが……。


「耐えられない……あなたと凪が結ばれるところを見ていられない。

 でも、二人のためにはそれが良いことも、分かっている。

 でも、そうしたら、今度は私が消えてしまう。いつまでも、八月の空を見られない。

 でも、もしも私とあなたが結ばれたら、今度は凪が傷ついてしまう。

 何万回、繰り返しても、何が正解なのか分からない。

 どうしたらいいのか、分からない……」


 重なる「でも」が、壁のごとく僕たちの前にそびえ立つ。


「柏の葉公園での一件も、あいつらと遭遇することを、私は知っていた。

 けれど、それを二人に伝えなかった。だから証拠の動画を撮ることができた。

 あのタイミングで私が出ていけば……凪を守ることに疲れたあなたは、私に身を委ねたくなる事は分かっていた。

 全て、計算づくの打算。所詮、私がこれまでやってきた事なんて…………」


 勢いを増す雨音も、決して嗚咽をかき消すことはなかった。


 ――もう耳を塞ぐことも、目を逸らすことも許さない。


 そう言われている気がした。


「今日、この時間、この場所に、凪が来ることも分かっていた。

 けれど、止められなかった……あなたに触れたくて……仕方がなかった……」


 響く波の嗚咽。去りゆく際の凪の瞳。僕は一体……。


 ――また、お前は、大切な人を傷つけた

 強くなったつもりだった……。これでも努力はしたし、己を律して頑張ってきた……。

 

 ――しかし、結果はこの様だ

 お前の言う通りだよ……結果が全てだから。

 凪と過ごしたあの日々に、意味はなかったのかもしれない。

 僕という鎖で縛りつけて、凪の未来を奪っただけだった。


 ――お前さえいなければ、こんな事にはならなかった

 僕さえいなければ、凪を……そして、波だって、苦しませることはなかった。


 ――これからどうする?

 もう無理だよ。凪にあんな顔をさせてしまった。

 僕の生きる理由だったのに……もう合わせる顔がない。生きている意味がない。


 ――じゃあ、死ねばいい。……もっとも、そんな度胸すら、ないのだろう

 そうだね。でも、凪の前から消えた方がいいのは間違いない。

 だから、学校もやめてこの街からも出ていく。

 父さんたちが遺してくれた財産のお陰で生活に困ることはない。

 身寄りもいないから……誰も困らない。


 ――ふん。逃げるのか。勝手にすればいい

 逃げる? これが最善の選択だ。


 ――最善、ね……。やはり、お前は何も分かっていない

 何が言いたい?


 ――凪と向き合うことが怖くて、拒絶されることを恐れているだけじゃないか

 そんなことは


 ――そんなことは、ない? 本当に胸を張って言えるか?

 ――生きる理由などと宣う癖に、正面から向き合ったことがないだろう

 やめろ。


 ――伝えろよ。凪のためだと理由を付けて、正義のヒーローを気取る前に

 僕は、僕は、


 ――凪のため

 ――その言葉こそが、凪の枷になっているんじゃねえのか?

 ――お前のために、お前が出した答えを、凪は求めているんじゃねえのか? 

 僕が、僕のために


 ――信じろよ。自分の信じてきたものを。積み重ねた自分を

 ――間違った結果だったかもしれないが、けれど、そこに嘘はなかったはずだ

 ――正しさよりも、信じたいものを信じろよ

 そうだ、僕は


 ――生きる理由とか斜に構えて嘯くな。まずは今を生きてみろよ

 お前の言う通りだ。


 ――ここまで煽っておいて何だが、たとえ、拒絶されようとも責任は取らないぞ

 構わない。生きることは、傷つくこと。関わることは、傷つけ合うことだから。


 ――ヒントはここまでだ

 ああ。足が竦むよ。震えが止まらない。


 ――ふん。それが生きるということだ

 知った風にいうな、もう二度と出てくるなよ。

 かつての僕よ


 ――それはお前次第だ

 それもそうだな。


 ――負けるなよ、運命に……果たせよ、約束を



 ありがとう。

 ありがとう、いつかの僕――かつての僕よ。

 でも、もう大丈夫。

 大切なものは、変わらない。

 いつだって、焦がれるほどに求めていた。

 僕の日常を彩ったのは、僕がこうしていられるのは――。


 生きること--それは、傷つくこと。

 傷を負った僕たちに、今更もう、失うものなどないはずだ。

 だから会いに行く。

 伝えなくてはならない。

 どれほど怖くても。

 どんなに拒絶されようとも。

 吹き荒ぶ雨は、一向に降り止む素振りを見せなかった。

 打ちつける雨が体温を奪っていく。波の肩が小刻みに震えていた。

 けれどそれは、決して寒さのせいではないのだろう。

 曇天も雨音も、僕たちの感情を隠してはくれなかった。


「波……ごめん」


 僕は彼女の肩にブレザーをかける。

「………………行くのでしょう」

「ああ……」

「そう……」

「でもな……波のことを大切に想う気持ちは本当だ」

 波は、力なく笑った。

「……最低。二股野郎」

「そうだな……僕は最低だ」

「真に受けないで……冗談」

「いや最低だ」

 きっぱりと、波の言葉を遮る。

「波を泣かせたことも、凪にあんな悲しい目をさせたことも。全ては僕のせいだ……居心地の良さに甘えていた」

「違う……。そもそも、私が『契約』のことを持ちかけなければ」

「でも、そうしなければ、波は消えてしまう」

「……けれど」

「波は、僕と凪にとって光そのものだった。理由や始まり方はどうであれ、初めて僕たちに踏み込んできてくれた。それが嬉しかった」

「そんなものは……詭弁」


「今更、関わらなければ良かったなんて言葉、許さない。もう波のいない毎日なんて――」


 僕は勢いよく、そして、奪うように――唇を重ねた。

 一瞬のことに驚いて身体を震わせた波だったが、やがて全てを僕に預けてくる。

 これまでのどんなそれよりも、激しく、熱い。

 体温が上がり、震えさえ収まってしまうほどに、情熱的だった。

 僕らにとって初めての、今日二回目のそれは、紛れもなく――本当だった。


「――……ん」

 波の声が小さく、そしてわずかに漏れる。

「はぁ……」

 困惑した表情を浮かべた。頬がわずかに紅潮している。

「どういう、つもり……?」

「これも、僕の気持ちだ」

「『契約』の履行、ではなくて?」

「そう。僕は、間違いなく、波に恋をしていた」

「過去形なのね」

「恋をしている……のかもしれない」

「煮え切らない」

「でも……だが……」

「凪の方が、もっと好き……?」

 これから僕が言おうとした言葉を奪われる。

「分かるわ……分かる。好きな人の瞳に映っている人が、自分ではないことぐらい。あなたの瞳は、いつだって凪を捉えていた」

「ああ。だから僕は――――」

「あーーー、あーーー、あーーー、きーきーたーくーなーいー」

「…………」

「その先は、本当に、聞きたくない。聞かなくても分かるから」


 そうして勢いよく、僕に飛び付き、首の後ろに手を回す。

 全身で波を受け止める。

 胸に顔を埋めてくる。腕の中に収まる波は、とても小さく感じられた。


「最後にするから……せめて今は、少しだけこうさせて……」


 本当に、正しかったのだろうか。

 恋や愛、嘘がなんたるかを知らない僕に、正解など分かるはずもない。


「あなたがこれまで積み上げてきたものを信じなさい。

 決して、これまでの事は嘘ではなかったはず。

 今は少し道を違えているだけ。

 でも大丈夫。あなたと凪は運命の二人なのだから」


 何かを強く振り払うように、もう一度、今度は波の方から唇を重ねてくる。

 振り払ったそれが、過去なのか、想いなのかは、分からない。

 けれど、僕も、それを拒むことはせずに受け入れる。

 どれくらい、重ね合っていただろうか。

 もはや『契約』という言い訳は通用しない。


「これは『契約』ではなく、告白のキス。受け取ってくれてありがとう」


 そう言って笑う彼女は、出会ったあの日と同じ顔をしていた。


「緑ヶ丘続――ありがとう。私は大丈夫。だから、早くいきなさい」

「これから先のことは、三人で話し合おう。必ず戻ってくるから……行ってくる」


 ――ありがとう、波。


 ひたむきな想いに背中を押されて、僕は走り出した。

 これまで波と過ごしてきた時間が脳裏を駆ける。

 思い出が掠めるように浮かんでは消えていく。鼻の奥が、つんと痛んだ。

 大切な日々を抱きしめるように、一歩一歩を進めていく。

 涙が瞳に浮かぶのを、ぐっと堪えて。


 もう泣くことは許されない。

 少なくとも、僕が泣くことは、あってはならない。


 波のためにも、僕たちは、もう一度向き合う必要がある。

 随分と道草を食って、遠回りをしてきた。

 逃げる理由を探しては、自らに言い訳をした。

 けれど、それでは駄目なのだ。


 いつの間にか、失うことを恐れて身動きの取れなくなった僕たちに、波が教えてくれていたのだ。

 ずっと前から、そう言ってくれていたのだ。

 どんな未来が待っていたとしても、それは結局のところ、今を積み重ねた結果でしかない。


 正しいか正しくないか、ではなく――信じるか信じないか。


 もしも仮に、これまでが間違っていたのだとしたら、

 今日から正して、信じ合えばいい。

 弱まる気配のない雨の中、僕は傘さえ差さずに、駆け出した。

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