第四章

《一話(前編):かつての《約束》、今の『契約』。僕たちの未来。》

 ――六月十八日。


 季節は移ろう。梅雨の真っ只中。今にも泣き出しそうな曇天だった。

 ここのところ、久しく太陽をお見受けしていないが、彼としても年柄年中、働くわけにもいかないだろう。

 労働基準法が適用されるのであれば、これから訪れる夏のフル稼働に備え、有給休暇と洒落込んでいてもおかしくはない。

 何人も、働くために生きているわけではないのだから。太陽を慮る意味でもこの季節くらいは諦めよう。

 こんな天気にしかできないことも、きっとあるはずだ。


 とはいえ、これほどまでに重たい鈍色の空が続くと、どうにも気分が塞ぎ込んでくる。

 日照時間の短い北国では、うつ病の発症率が高いと聞く。その意味が少しだけ分かった気がする。


 しかし、何も気分が落ち込むのは、天気のせいだけではない。


 考えなければいけないことがたくさんあった。

 解かなければならない問いや、出さなければならない答えがたくさんあった。

 けれど、そのどれもが仕掛かりのまま、棚上げされている。

 ゴールの用意されていない迷路を歩いているような気分だった。


 ゴールデンウィークのあの日以来、波は頻繁に僕の部屋へ訪れるようになった。

 甲斐甲斐しく身の回りの世話を焼いてくれる彼女に騒めく自分の心が嫌だった。

 揺れる感情に嫌気が差した。

 少しずつ熱を帯びていく気持ちに戸惑った。


 波は僕に縁のないはずだった暖かさを与えてくれた。

 両親を亡くしてから、触れることを諦めたものに手を触れさせてくれた。

 凪とは違う、包まれるような暖かさを、僕はいつからか手放させなくなっていた。

 そればかりか、自分からそれを求めるようになっていた。


 一方の凪からは、未だに妙な距離感を保たれたままだった。

 今や毎朝の通学も別で、「みんなで朝活をする」ということだから、駄目なんて言えやしない。

 むしろ、新たな人間関係を構築し、育んでいくことは喜ばしいことのはずだ。

 そもそも僕に、それを拒む権利などないのだった。何なら、凪には、僕に許可を得る義務すらないのだ。

 ……権利や義務なんて、まるで『契約』みたいに無機質で寒々しい言葉だと思った。



 凪にとっての僕は、どんな存在か。

 僕にとっての凪は、どんな存在か。

 


 そんなことばかりをくどくど考えていた。

 僕にとっての波は、どんな存在か。


 ……僕は、波のことが好きなのだろうか?


 打ち消しては誤魔化して、振り払っては退けてきた疑問を頭の中で反芻する。

 口にすることさえ憚られる。

 口に出したら最後、これまで凪と育んできた時間を根底から覆してしまうほどの感情を、僕は、どう取り扱えばいいのか分からなかった。

 恋も、愛も――嘘だって、僕は何一つとして、知らなかった。


「雨が降る前に――あの場所で」


 そう耳打ちをして、教室から出て行った波を、今日もまた追いかける。

 最初は清水公園だった『契約』のそれも、今や学校の屋上が定位置だった。

 お互いにこれから予定があるわけではないのに。

 今まで通りに、いつもの公園ですればいいのに。


 でも、そうはしなかった。

 できなかった。

 我慢ができなかったのだ。

 早く触れたかった。

 それだけのことだった。

 お互いに、凪を言い訳に、目を逸していた。


 凪との《約束》があるから……

 波は、凪の友達だから……

 これは契約だから……


 触れたくて仕方がだけなのに、言葉を飾って取り繕った。

 触れた瞬間に何もかもが壊れてしまうような脆さだったから、触ることが出来ないように、ショーケースへ仕舞い込んだ。


 僕と凪。

 僕と波。

 波と凪。


 そんな、雲がたゆたうように曖昧なこの関係は、ひどく不確かなものだ。

 『契約』のあと、波がひどく悲しい瞳をする理由がようやく分かった気がした。

 彼女は言う。


「あなたと凪の《約束》だけは、どんな世界線でも変わらなかった」


 僕と凪が運命で結ばれているのなら、それは換言すれば、波に明日がないことを意味する。

 僕と凪が結ばれたとしたら、いつまでもこの『契約』を続けるわけにはいかない。

 やがて、破綻する時が訪れる。

 そして恐らく、そんな悲劇的な結末を迎える前に身を引き、消えていく――それが豊四季波という人間だ。


 彼女は壊すことができない。

 優しすぎるから。


 だから、『契約』を重ね、僕との距離が縮まっていく度に寂しさを募らせる。

 人は、何かが終わるその瞬間よりも、終わりがあることを意識した瞬間に寂しさを感じるものだ――いつだったか、凪に借りて読んだ小説の一節が浮かんだ。



 いつものように歯を磨き、マウスウォッシュで濯ぐ。

 汗の匂いを気にして、制汗スプレーまで振りまくこの頃。

 一体、僕は何をしているのだろう。



 重たい足を引きずりながら、屋上へと向かう。

 今や、階段を駆け上がることさえなくなった。

 胸に秘めた想い、高鳴る鼓動に気付いて欲しいとさえ思うようになっていた。

 ゆっくりと、ゆっくりと、一段一段を、進んでいく。


 背後で物音がした気がしたけれど、今の僕に振り返る気力はなかった。

 ひどく頭が重い。

 屋上では波が、スマホを弄りながら待っていた。


「おそいー」

 清々しいまでの棒読みだった。

「ごめん……」

「冴えない顔をして、どうしたの? あ、ごめんなさい。それはいつも通りだった」

「やかましいな。なんでもないよ……それで、何を読んでいるんだ?」

「ジャンプ」

「意外だ。漫画とか読むんだな」

「人生で最も大事なことはジャンプに書いてある。あなたも馬鹿みたいに教科書ばかり読んでいると、馬鹿みたいな大人になるから気をつけた方がいいわ。一度馬鹿になったら治すことは困難を極めるから、そもそも馬鹿にならないように成長することが大切」

「何回、馬鹿と言えば気が済むんだ……馬鹿にしているのか……」

「でも、残念ながら、この先の展開を知っているの。続きが読みたい」

「…………」

 つい言葉に詰まってしまう。

「あ、そんなに深刻な意味じゃない。消えちゃう人ジョーク。界隈では割と流行っている」

 なんだよ、消えちゃう人ジョークって。

 そんな界隈が存在してたまるか。


 二人して空を見上げる。

「今にも泣きだしそうな空」

「曇天だな……」

 まるで僕の顔みたいに冴えない空模様。

 僕たちは、切なくなっていた。

「はじめようか……」

「ええ……、はじめましょう」


 歩み寄り、一瞬だけ見つめ合ったあと、目を伏せる。

 握り合った手に力が込められ、肩を引き寄せる。

 いつものように。これまで、何度も繰り返してきたように。


 これは、『契約』。


 そう言い聞かせながら。

 そうして、目を閉じて唇を重ねた。

 その時だった。

 ガチャンと重たい扉が開く音がした。

 はっとして、振り返る。



 ――そこに、凪が立っていた。



 時が止まる。雷号が轟いた気がしたけれど、余りにも心臓の音が煩くて、もはや僕の耳には届かなかった。

 三人が等しく息を飲み、言葉を発することができなかった。

 何を言ったらいいのか、まるで分からなかった。

 重たい静寂が屋上を覆った。

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