《凪の日記⑤:六月十七日》

 あたしは、彼を避けて、遠ざけている。

 本当に大切なものは遠ざける――かつて、彼がそうした意味がようやく理解できた。

 それはとても辛い事だった。

 大切だからこそ触れたくて、愛でていたいはずだから。

 それでも、河原塚くんとの一件で――いや……、ずっと前から、気が付いていたのだ。


 あたしの存在は、彼にとっては足枷だから。


 あたしさえいなければ、彼は、こんなに苦しむことはなかった。

 あたしが彼の自由を奪ってしまった……のだ。


 もしかしたらこれは、「好き」という感情でさえないのかもしれない。

 もはや、ただの依存ではないだろうか。

 人は、費やした時間に価値を見出すものだから。

 あの時間を肯定するために、あの日々は無駄ではなかったのだと思い込むことで、無理やり過去に意味を見出しているだけではないだろうか。

 互いに互いを縛り付けているだけではないだろうか。


 好きにならなければ良かったのではないか。


 出会わなければ――……良かったのではないか。


 近頃、あの時と同じ暗い目をするようになった彼。


 もしかしたら、このままあたしが傍にいたら、壊れてしまうかもしれない。

 大切なものを、この手で壊してしまうくらいならば――身を引こうと思ったのだ。

 笑っていて欲しいから。

 願わくは、あたしの傍でそうして欲しい。

 けれど、そうじゃなくても構わない。

 これ以上、あたしのために傷ついて欲しくない。


 しかし、実際にこうして離れてみて思ったのだ。

 ――やっぱり、あたしは、どうしようもなく、彼のことが好きだった。

 それは、嘘も偽りもない真実。


 声が好き。笑顔が好き。授業を聞く真剣な眼差しが好き。美味しいラーメンを食べた時に綻ぶ目尻の皺が好き。サラサラの黒い髪や昔から変わらないシャンプーの匂いが好き。手の血管が好き。ママのせいで無駄に逞しくなった筋肉も好き。隣を歩いて、少し高いところから見下ろされる横顔が好き。朝の「おはよう」はどんな目覚まし時計よりも爽やかで好き。夜の「おやすみ」はどんなお布団よりも穏やかな気分になれる。全てが愛おしい。


 ――あたしの日常は、こんなにも、彼が彩っていてくれたんだ。


 それに改めて気が付いたから。

 気が付くことが、出来たから。

 だから、もう一度だけ告白をしてみようと思った。


 《過去》や《未来》の話ではなく――。


 ――今、君が好きだよ。

 ――今、この瞬間を君と刻みたいんだよ。


 そう伝えたい。

 辛かったこれまでを、なかったことにはできない。

 だからこそ叶うなら、もっと対等で、縛り合うのではなく、お互いを前に進むための力にできるような関係を築きたい。


 それこそが、あたしたちの求めた《永遠》だと思うから。


 あなたが今でもあたしを好きで居てくれるのかは、分からない。

 たくさん傷付いて、戦って、自分達を守ることに必死だったあたしたちは、いつからか「好き」という気持ちを言葉にしなくなった。

 伝えることで「何か」が変わってしまうのが怖かったのだ。

 《約束》という言葉に希望を抱かずにはいられなかったから。

 《約束》の意味するものは、何なのか。

 気が付けば言葉の意味さえ、考えなくなっていた。

 一緒にいるために、一緒にいただけだった。

 でもそれでは、《約束》は、ただ縛り合うだけの鎖の言葉に成り下がってしまう。


 だから、聞いて欲しいんだ……づっくん。

 もう一度、あの日の《約束》を言葉にするから。

 水溜りに反射する夕陽が眩しかったあの日の《約束》を、もう一度、伝えたいんだ。

 今度こそ、あなたとともに、前に進みたいから。


 ――六月十七日。

 いつまでも降り止まない雨音に、あなたの声を恋しく思いながら。

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