《五話:世界はその感情を罪悪感と呼ぶ》

 ――五月二十一日。

 桜が置いていった桃色の絨毯は今や見る影もない。見上げるとそこには新緑に染まった木々が生い茂っていた。

 夏と呼ぶにはまだ早く、春と呼ぶにはもう遅い。そんな季節と季節の狭間を、僕たちたゆたうように過ごしていた。

 これ程の天気なのだから、凪を連れ立ってピクニックにでも行きたいところだが、しかしそれは叶わない。

 なぜなら、中間テストを目前に控えているからだ。

 茜色が差し込む放課後の教室に幽閉され、勉強会に参加している。

 もっとも、成績上位の僕達がそこまで追い込まれる事はないのだが、教える側としての参加要請があった。

 断ることもできたのだけれど、凪が

「クラスのみんなで勉強会をやろうって! みんなで出ようっ!」

 と、目を輝かせて言ったので参加を決めた。

 凪の言うことは絶対! 

 それはこの世界の理!


 クラスにもすっかり馴染み、それなりに充実した高校生活を送っている僕たち。

 凪もクラスの中心で笑っている。

 僕に向けられる笑顔もいいけれど、誰かと笑い合っている姿もまた幸せな気分になれる。


 しかし「今日は女子会だから! ごめんね、づっくん!」と一人で帰らされることが増えたことには若干の不満もある。

 その女子会、僕も混ざっちゃダメかな?

 ダメですね……というか、もはや増えたなどといった頻度ではなく、連休が明けてからというもの、一度も一緒に下校していない。

 毎日別々の帰宅だ。


 確かに、新しい友達との時間を大切にしてほしいとは思っている。

 二人で逃げるように学校を後にし、寂しく勉強会を開いていた中学時代を思えば、この状況は悪いことではないのだろう。

 むしろ喜ばしいことで、そんな安寧な時間を求めて、僕たちはここまでやってきたのだから。


 しかし、そうではない。

 何だか避けられている気がするのだ……僕の思い過ごしだろうか。


 凪から放置プレーを食らい、宛どころなくさまよう僕も、男子同士でラーメンを食べに行くくらいの交友関係は築いていた。

 部活には入らなかったが、クラスの一部男子でラーメン部なるものを立ち上げ、日夜新規開拓に勤しんでいる。

 先日は松戸まで足を伸ばした。

 柏も松戸も名店揃いで、一向に開拓が進まない。

 美味しいところには何度も行きたくなるし……。

 

 こうしてお互いに、お互いが存在しないコミュニティに属する。

 それは初めてのことだった。

 正直、戸惑う僕がいる。

 凪は一体、どう思っているのだろうか。



 勉強会の途中、一休みと称し教室の外に出る。

 ベランダの柵に寄り掛かりながら、教室内を眺めていると、夕方の風がそっと疲れた体を撫でるように流れていく。

 僕の視線に気がついた凪が、ニコッと笑顔で手を振ってくる。

 穏やかな気持ちで手を振り返す。

 嘘みたいな日常だった。

 何でもないふとした日常の中に凪がいた。

 やはり深刻に考え過ぎだろうか。

 河原塚との一件以降、知らず知らずのうちに神経質になっているのかもしれない。


 ぼんやり凪を目で追っていると、がらりと教室の扉が開いた。

「嫌らしい視線を向けないで欲しい」

 相変わらず高圧的なプレッシング。

 波は波で、クラストップの成績とあって頼られている。

 姉御的な立ち位置を確立していた。

「ふざけるなよ。僕は凪しか見てない」

「凪に嫌らしい視線を向けないで、と言っているの」

「ああ、それは……すんません」

「分かれば、いい」

 満足そうだった。


 ――少しばかりの間。

「あなたは、凪のどこが好きなの?」

 唐突な質問に意味を図りかねる。

「特に深い意味はない。聞いたことがなかったから」

 凪を、好きな理由――好きなところ。

「考えたこともなかったな……」

「嘘……でしょう? そこまで想っていて、それを考えたこともない?」

「この感情を一番初めまで辿っていけば……そうだな、一目惚れ――という事になるのだろうな」

「一目惚れ?」

 どこか腑に落ちない様子だった。

「初めて会った時、冗談抜きで『天使みたい』だと思ったんだ」

「うわっ、気持ち悪……」

 失礼なやつだった。

「お前が振った話だろうが!」

「大きな声を出さないで。冗談だから。どうぞ続けて」

「凄く腹が立つな……まあいいや。凪は、小学校の途中で転入してきたんだよ。両親同士の仲が良かった事もあって、必然的に過ごす時間も長くなった。けれど、あんな事があって」

「ご両親の事?」

「それもそうだし、河原塚のことも。僕がどん底まで堕ちた時、この世界の全てが敵だと思った時に、支えてくれた。ずっとそばにいるから、って。本当に文字通り救われた。今の僕があるのは凪のお陰。だからそれに報いたい。凪が笑っていられるように」

「うわっ! おもっ!」

「……やめるか? この話」

「冗談」

 冗談と言えば何でも許されると思うなよ?

「だから、せめて凪が笑って過ごせるようになるまでは、傍にいたい……」


 本当に、それだけのために僕は、これまでを生きてきた。

 凪が笑顔で過ごせる日常が欲しい――ただそれだけのことだった。

 けれど、それを聞いた波は、呆れたように言った。

「その感情を恋と表現するには無理がある」

 否定するわけでもなく淡々と。

「どう言う意味だ……?」

「そのままの意味」

「意味が分からない」

 自然と語気が荒くなる。「意味が分からない」と言われる意味が分からない。

「あなたが何も分かっていない、ということだけは、分かった」

 ぷいっとそっぽを向いた。

 長いまつ毛や高い鼻。

 照らす夕陽がより一層彼女の美しさを際立たせる。つい見惚れてしまいそうになる心をぐっと押さえ込む。

「腹立たしい言い回しだな……」

「怒らないなら、もう少しストレートに言ってもいい」

「分かった。怒らないから」

「でも、どうしようかな〜? そう言って怒らなかった人を見たことがないな〜」

「……喧嘩を売っているのか?」

「冗談」

 僕をからかうのが面白かったのか、一瞬だけ笑った。本当に一瞬だった。

 そして、すぐに笑顔を消し去り、深いため息。


「罪悪感――その感情は、ただの罪悪感」


 罪悪感。

 それは、「好き」という感情からは正反対。

 最も対極にある言葉だ。

 けれど、僕は言い返すことができなかった。

 すぐにでも反論し、論破しなければならないその言葉を、飲み込むことしかできなかった。

 見透かしたように言う波に対して、

「そんなのは戯言だ」

 と、吐き捨てることが出来なかった。

「それは……」

 意味のない文字列。

 ようやく絞り出した言葉だった。

「笑っていられるようにという事なら、既に果たされている。あなたはもう、お役御免」


 教室の凪を見る。

 級友に囲まれて楽しそうに笑う凪がいた。

 出会った頃の無邪気な笑顔がそこにあった。

 僕が凪に渡したかったもので、それは、僕が凪から奪ったものだ。

 まるでマッチポンプ。

 知らぬ間に、手に入っていたというのか。そうだとしたら――。


「少し意地悪だった……謝る。忘れて欲しい」

 言い残して教室に戻っていた波が凪の隣に座る。波が何か言ったのか、凪が目を綻ばせた。


 去り際に「今日の契約は屋上で」と囁いた声が耳にこびり付く。

 言いたいことだけ言いやがってと恨めしく思った。


 探し求めたものが、知らず知らずのうちに手に入っていた。

 報いることができたのだろうか?

 やり終えたのか?

 これで、いいのだろうか?

 だとしたら――だとしたら、僕はこれから、どこへ向かえばいいのだろう……?

 放課後の喧騒が遠のいていく。

 どこからか、帰宅を促す「夕焼け小焼け」のメロディが響く。

 この街で、パンザマストと呼ばれて親しまれているそれは、幼い頃、凪との一日に終わりを告げる悲しみの象徴だった。

「また明日っ」

 幼い頃の凪の声――。

 陽が落ちたとしても、明日には再び会えるというのに。


 けれど、一瞬たりとも離れたくなかった僕たちにとっては、やはり残酷な鐘の音でしかなかった。

 もう戻ることはないあの日々に想いを馳せながら、重たい溜息を一つ吐き出して、僕は帰り支度を始めた。

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