《四話(後編):いつもより、少しだけ長かった契約》
部屋へ戻ると「エプロンは?」と訪ねてくる。
男のひとり暮らしに、そんなものが存在するはずもない。
「信じられない」という顔をしていた(実際に声も出したかもしれない)。
「じゃあ、いらない服を貸して」
適当に見繕ったGAPの紺色のトレーナーを差し出す。
「緑ヶ丘続、いいセンス。洗って返す」
「いいよ、別に。もうサイズが合わないから。要らなかったら、こっちで処分しておく」
「そう言って、私の匂いが付いた服をおかずに夜な夜な嫌らしいことを」
「しねえよ」
なんて事を言うんだ。そんな事を言われたら、変に意識してしまうじゃねえか。
包丁捌きなどを見るに、相当手慣れている様子だ。
あれよ、あれよと野菜がカレーに姿を変えていく。
マシュマロの袋を眺めて逡巡している様子も見られたが、さすがにそれは無理だという結論に至ったらしく、悲しそうに脇へ押しやっていた。
懸命な判断だと思います……。
「多分、河原塚は凪のことが好きだったんだ」
一瞬だけ作業する手を止めた豊四季は、神妙な顔で頷く。
「昨日のことも、そして、小学校から始まったいじめも、発端はそういう事なんだ。アイツは、俺と凪を引き離したくて仕方がなかった」
「そんなの……余りにも幼稚じゃない。そんな事で凪の心が動くはずがない」
「多分、アイツにとっては始めてだったんじゃないかな」
「何が?」
「どんなに手を伸ばしても、届かないものに出会ったのが。昔から我儘で、親も甘やかし放題。だから、こんな方法でしか、恋心を示すことが出来なかった」
「それはそれで、悲しい人生なのかもしれないわ。同情の余地はないけれど」
「全くだ」
それにしても僕の部屋で、僕の服を着ながら、僕のために料理をする豊四季。
手で四角形を作り、片目を閉じて、カメラに収めるように、この風景を切り取ってみた。
「……なに?」
「いや、すげえなって。なんでも出来るんだな」
「あなたとは生きている時間が違うから。重ねた時間の分だけ、出来る事は必然的に多くなる」
「まるで、永遠を生きているようだな」
「まさしく。いつまで経っても、終わらない。進まない」
永遠を生きる彼女は、この日々に何を想うのだろうか。
どんな意味を見出して、何のために生きるのだろう?
それは余りに途方も、果てもなくて、見当もつかない。
想像できたとしても、それは恐らく見当違いだろう。
だから、容易に口には出さないようにした。
「本当は、僕も父さん母さんと一緒に死ぬはずだったんだ。けれど父さんたちが事故にあった日、僕の帰宅が少しだけ遅れたんだ。帰る間際、凪が急に改まった話をするから――それが結果的に僕を救うことになった。帰宅したら、母さんの『お父さんを迎えに行ってきます』というメモがリビングにあって、それが最後」
「その……凪の改まった話って」
「あの前後のことは、正直なところ記憶が曖昧なんだ。ぼやけて、よく思い出せない。だから、僕が夢に見ていただけで、勘違いなのかもしれない――そして、仮に記憶が確かだったとしても、未だに凪がそれを覚えているか分からないけれど」
長い前置きだった。どうして僕は、豊四季にこんな話をしているのだろう。
「ずっと一緒にいようって、《約束》をしたんだ」
「……まるでそれは、運命」
「つまらない昔話だ。忘れてくれ」
戯言だった。その間も、豊四季は淡々と作業を進めている。
「あまりそういうことを、言うべきではないわ」
「え?」
「今の自分は、過去という礎の上に立っているのだから。冗談でも自分の過去を否定する言葉は吐かない方がいい。それは結果的に今の自分を否定することと同義だから」
それもそうかもれない。僕は頷いた。
「なんだか、こういう風景を見ていると、僕たち、新婚みたいだよな」
重たい空気は好きじゃない。だから、僕は話題を変えた。
「……なっ! 新婚っ……!?」
「そう思わないか?」
「み、緑ヶ丘続……驚かせないで」
「そんなに嫌がらなくても……」
凪さえいたらいいと思っている僕だって、さすがに傷つくぜ……。
「ち、違う……。別に嫌とかじゃなく……」
「は? なんて?」
「うるさい……完成よ」
会話を中断するには絶妙のタイミングでカレーが運ばれてきた。
そのカレーは、とても懐かしい、母さんの作ったカレーの味がした。
口に運んだ瞬間、父さんと母さんの顔が浮かんだ。幼かった頃の僕は、母さんの作るカレーが大好きだった。
習い事や勉強を頑張った時に、母さんが作ってくれるカレーが他のどんなご馳走や外食よりも好きだった。
家族三人で囲った食卓が脳裏に浮かぶ。世界は優しく、輝きに溢れていたあの頃。
もう、どれだけ望んでも戻らないあの日々。
「どうしたの…………?」
不覚にも僕は涙を流していたらしい。
女の子の前で泣くなんて、それこそ父さんや母さんに顔向けができない。
袖口で涙を拭う。涙を流したところで、結局、何も変わらないのに。
だからこそせめて、大切な人を守ることができるくらいには強くなりたくて、これまでの人生を歩んできた。
それを間違いだったとは思っていない。
「ごめん……何でもない」
勢いよく、かき込み、平らげる。
「お代わりもあるけれど」
「いや大丈夫。ご馳走さま。美味しかった」
「それはよかった」
「懐かしくなって……それにしても、どうしてこの味を……?」
「私はカンニングをしながら生きているようなものだから」
どこかの世界線で、母さんのカレーを口にする事があった、という事だろうか。
「ありがとう。気が向いたらで構わない。また作ってくれ」
「ええ。このくらいでよければ、いつでも」
素っ気ない言葉とは裏腹に、その表情はどこか満足そうだった。
お返しに食後のコーヒーは僕が煎れた。僕に出来ることといえば、精々この程度のことだ。
それにしても、穏やかな午後のひと時だった。
窓の外では、大きな雲がゆるりと流れて行った。カーテンが優しく揺れて、緑色の木々たちは五月の陽射しを存分に浴びている。
葉擦れの音が、心地よく街中に響いている。
もしも、僕の人生に、凪がいなかったとしたら――。
僕が、凪と出会っていなかい世界線があったとしたら――。
豊四季と二人で時間を刻み、重ねる世界線もあったのだろうか。
もしも、の話。
ifの世界線。
そんなことを考えるのは、想像することさえ、馬鹿馬鹿しい。
くだらない。戯言にも程がある。意味がない。
これまで、数え切れないほどたくさんのものを捨ててきた。
何かを選択するということは、何かを捨てることだから。
守りたいものが、大切なものがあった。
それを選んできた。それだけのことだ。後悔はない。
「みっともないところを見せたな……」
「構わない、緑ヶ丘続。涙は、それを必要としている人に、然るべき時にしか流れないもの。だからきっと、今が泣くべき時だった」
コーヒーを口に含み、ふっと一息ついて、続ける。
「だからせめて、この涙の意味をよく考えることじゃない? 流した涙のためにも」
「豊四季は強いな」
「どうしたの、緑ヶ丘続。あなたらしくもない」
「昨日の件も含めて、ちゃんと伝えられていなかったから……ありがとう。本当に。僕も凪も、豊四季のおかげで救われている」
「そんなことは……ないと思うけれど」
「知っているんじゃないのか? 今までの世界線で見てきたのだろう?」
「どの世界線も全く同じというわけではないから……。あなたがブヨブヨに太っている世界線もあれば、不登校で引きこもっている世界線も。一つ前は……思い出したくもないけれど、見境なく女の子に欲情する軽薄な男だった。しかも、あろうことかこの私にいやらしい視線を向けてきた」
「ちなみにその世界線の僕は……」
「もちろん処分したわ」
「はは……」
ニッコリと笑う豊四季。乾いた笑いが出る。その世界線の僕には同情を禁じ得ない。
「でも気にならないのか? この世界線の僕たちの過去のこと」
「大切なのは、《過去》ではなく《現在》、そして、《未来》のこと」
そう断じた。迷いは一欠片として存在していなかった。
「やっぱり強いよ、豊四季は」
しかし、ゆっくりと首を左右に振り、否定する。
「違う。むしろ、それは私の弱さ。過去を知ったとき、私に残るのは罪悪感だけだから。それが嫌で目を逸らしている」
契約のキスを交わしたあとのひどく寂しい瞳。
美しい顔に影が差した。
その表情と『罪悪感』という言葉の意味が、僕には分からなかった。
「人に歴史あり、と言う。人は過去という名の礎を築き、その上に立って生きている。だから、過去を知るということは、その人を知るということ」
「だとしたら、僕たちの過去も……」
首を振った豊四季の瞳には、これ以上の追求は許さない強い意志が込められていた。
「……安心して。あなたと凪の《約束》だけは、どんな世界線でも変わらなかった」
「そうか……そうか……」
「まるで運命に愛された二人。何度、生まれ変わったとしても、強く結ばれる」
「運命、か……。果たして、凪にとって、僕と出会ったことは」
言いかけて、思い止まった。
口にしてはいけない言葉がある。
言葉になったら最後、戻ることができない類の言葉がある。
豊四季に倣うように、冷めて苦味の増したコーヒーを飲み干す。
そんな言葉を豊四季に投げて、一体、どんな言葉が帰ってくれば満足なのだろうか。
客観的な意見が欲しかったわけではない。
他人にどう思われようが、今更もう知ったことではない。そんなことで揺れるほど、僕と凪の絆は柔じゃない。
でも、そうではなくて。
そうではなくて。
僕たちは本当に、運命なんて高尚なもので結ばれた二人なのだろうか。
《約束》なんて耳障りのいい言葉で飾って、縛っているだけではないのか。
「支え合う」だとか「絆」だとか、優しい言葉で包むように形容して――けれど、それは本質とは程遠く、向き合うべきものから目を逸らして、茶を濁しているだけではないだろうか。
これまで積み上げてきた時間を疑うつもりはない。
二人だから、ここまで来られた。凪の存在が僕の支えだった。
それでも人は、費やした時間に価値を見出すものだから。
それだけのことではないだろうか。
費やした時間を正当化するために、運命などといった甘美な言葉で過去を彩る。
論点の逸れた論理的思考と同様に、どれだけ展開が正しかろうと、そもそもの開始点が決定的に間違っていたとしら、それはもう絶望的に何もかもを間違えている。
どれだけ展開しても、正解には辿り着かない。取り返しのつかない不正解。
だとしら、そもそも出会ったこと自体が、始まったこと自体が――……。
また、だ。
また、迷宮に閉じ込められたように思考が回転する。
暗闇に引き摺り込まれる感覚に全身が覆われる。
呼吸が乱れ、汗が吹き出す。目眩なのか、地面が揺れている気がする。
昨日、川原塚たちと出会ってから、少し変になっている。疲れているのだろうか。
――……なさい。
誰かの声だ。けれど上手く聞き取れない。心地良い声だと言う事しか分からない。
――……っかりしなさい。
好きな声だった。僕の心に安らぎと救いを与えてくれる。
――……しっかり、しなさい。
「しっかりしなさい、緑ヶ丘続」
そうか、この声は豊四季か。
意識がこの世界に戻ってきた。
気が付くと、僕は、後ろから豊四季に抱き抱えられていた。
親鳥が雛を守るみたいに。触れ合う肌の温もりが、これほどまでに優しいものだという事を久しぶりに思い出した。
「また泣きそうな顔をしている。そんな顔をしていては駄目。あなたは、どんなことがあっても強くなくてはならない。凪を守り続けるのでしょう」
耳元でささやく豊四季。漏れる吐息が首元に触れた。
「無理だ……無理だよ、そんなの……少し疲れたよ」
「そんな時は、寄り掛かったらいい。そのために――私は、ここにいる」
寄り掛かれという言葉とは反対に、全体重を僕に掛けてくる豊四季。
「こうやって、寄り掛かったらいい」
「……それは、ひどく魅力的な提案だ」
本当に、それはひどく魅力的だった。
「悪くない、でしょう」
「ああ……豊四季にしては、悪くない」
「その豊四季って呼び方、やめて欲しい。私には名前がある」
先ほどよりも鮮明に彼女を感じる。
背中で感じる彼女はとても柔く、暖かい。
身体の輪郭の細部までも手に取るように分かる。
二人の境界線が溶けてなくなってしまいそうだった。
どこまでが僕の身体で、どこからが豊四季の身体なのか。もう判別することは出来ない。
「波」
「よくできました」
顔を彼女の方に向ける。
そこには、晴れやかに、明るく朗らかに、そして高らかに……、まるで八月の空のように澄み切った笑顔があった。
黒い瞳が優しく包むように僕を抱く。
絡み合う視線。どちからともなく、目を伏せる。
「……っ」
「――――ん」
微かな息遣いだけが、昼下がりの部屋に響いた。
いつもより、少しだけ長かった『契約』を、今日も履行する。
それ以上でも、以下でもない。
これは――。
「これは『契約』」
「ああ……、『契約』だ」
あくまでも、『契約』。
そう、確かめ合う。
それ以上の意味を見出さないように。
「たまには、こうして契約に意味を……」
彼女が言いかけた言葉は、しかし宙を舞って、行き場を失う。そして言い直した。
「美少女に抱きしめられた上、キスまでしてもらえるなんて、幸せ者」
すでに、そこには、いつもの豊四季がいた。
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