《四話(前編):いつもより、少しだけ長かった契約》

 ――五月三日。


 バーベキュー翌日。

 昨日は帰宅してすぐにベッドへ潜りこんでしまった。

 普段は五時に起床しトレーニングをするのだが、どうやら気が付かぬうちに疲労が蓄積していたようだ。

 浴槽へお湯を張りつつ蛇口の奏でる無機質な音をBGMにしながら、凪へメッセージを送る。


(昨日は大丈夫だったか?)


 すぐさま、既読がつき、返信がくる。


(うんっ。心配かけてごめんねっ!)


(今朝はちょっと熱が出ちゃった。だから、今日の勉強会はお休みするね、ごめんっ!)


 凪の好きなアニメキャラクターのスタンプが付け足される……可愛い。


(ゆっくり休んでな)


 打ち込んで、僕は、スマホをベッドに投げる。

 凪が体調を崩すことは珍しい。

 さすがに新生活が始まって一か月が経過し、見えない疲労が溜まっているのだろう。

 何か……忘れている気がするが、とりあえず一時間ほどを掛けて半身浴。

 近所にサウナでもあれば整えに行きたいところだが、お生憎様、徒歩圏内に銭湯はなかった。

 代わりにシャワーの冷水を全身に掛けて水風呂の代わりとする。

 長くお湯に浸かったこともあって、頭が冴えてきた。

 それと同時に空腹感に見舞われる。朝食は何にしようか……。

 とはいえ、誰かが作ってくれる訳もなく、買い物へ行くのも億劫だから、結局いつも通りのタンパク質中心メニューに落ち着く。

 無性にカレーが食べたい気分でもあった。


 ……あれでも、やはり、何か忘れている気がする。

 拭い切れない違和感。念のために携帯を見る。

 そこで、自分がとんでもないことをしていたことに気がつく。


『不在着信:129件 豊四季波』


 えっ…………。

 不在着信が三桁。中々お目に掛かれるものじゃない。

 記念にスクショでも撮っておこう、カシャ……なんて事をしている場合ではない。

 違うのだ。僕はてっきり、凪の欠席イコール勉強会自体が中止だと考えたのだ。

 時刻は既に当初三人で待ち合わせ予定だった十一時を三十分も過ぎている。

 これは抹殺される可能性が非常に高い。

 慌てて折り返すと零コールで電話に出た。


「あの……豊四季さん、違うんですよ」

「…………」

「てっきり中止かと……決して忘れていたわけではなく……」

「…………」

「あの、豊四季さん、聞いていますか?」

「…………」

「お昼ご飯でも食べに来ますか……? カレーでも……昼食の時間ですし……」

「………………いく」

「え?」

「いく」


 ぶちっと切られた電話。焦って我を失ったばかりに思わず自宅に招いてしまった。

 部屋の掃除は日頃から行っている……というのは嘘で、定期的に凪ママが掃除に来てくれるのだ。

 本当にすみません、いつもありがとうございます。

 念のために言い訳をしておくと、もちろん無報酬で、というわけではない。

 しっかり対価を払っている。ギブ・アンド・テイクだ。

 その対価というのが、まあ……非常に申し上げにくいところではあるのだけれど、凪ママの大好物である筋肉を堪能させてあげることだ。

 そう、凪ママは重度の筋肉フェチ。

 僕の日常に筋トレを組み込み、タンパク質中心の食生活を擦り込んだ張本人。

 気がつけば凪ママ好みの肉体になっていたという末恐ろしい話。

 余談だが、当然、凪パパもそのフェチの対象であるから、絶対に太ることは許されないらしい。

 かつて、体脂肪率が二桁台になった瞬間、家から追い出されたというのが専らの噂だ。毎日のように計量が行われるらしく、もしかしたら、プロボクサーよりもストイックな生活を送っている可能性まである。

 同情を禁じ得ないけれど、それでも頑張りたくなってしまうくらい可愛いのがこれまた憎い。


 それにしても、凪(好きな人)に見守られながら、宿連寺家のリビング(好きな人の家)で、凪パパ(好きな人の父親)と共に上裸でポージングを決めながら、凪ママ(好きな人の母親)に筋肉を撫で回されるというのも、中々狂気な光景である。

 その時の、仏のように悟った表情で虚構を見つめる凪の表情が余りにも物悲しいのだった。



 話は逸れたが、つまり、部屋の掃除は問題ない。

 これがラブコメならエッチな本が見つかる一コマがあるのだろうけれど、今や時代は、デジタル・トランスフォメンション! インターネット・オブ・シングス!

 アダルトサイトを徘徊して収集した秘蔵の「凪に似ている動画」フォルダーは、クラウド上に保存してあるから大丈夫。


 また話が逸れた。つまり、女子高生を部屋に迎えるにあたって、差し当たり懸念事項はない、という事だ。

 そんなことを思慮している間に、インターホンが鳴る。

 意味はないけれど、もう一度部屋を見渡し、深呼吸をして玄関を開ける。

「やあ……、いらっしゃい……」

 努めて明るい笑顔で出迎えたものの、豊四季の瞳は冷たく光る。

「緑ヶ丘続、最低」

「さすがの僕も謝る事しかできない」

「…………」

「ごめんて……」

「……」

「ほら豊四季という苗字には、四季が入っているわけだから、冬の冷たさだけじゃなくて、春ように暖かい豊四季さんや、夏のように爽やかな豊四季さんが見たいなあ……あはは」

「………………」

「いや、本当に申し訳ございませんでした」

「…………」

「玄関先というのもアレですし、上がりませんか……?」

「まあ、いい……カレー、食べさせてくれるのでしょう? お腹が空いた」

 黒い無地のジーンズにダボっとしたグレーのパーカー。靴はシンプルな黒いオールスター。

 生活感を煮詰めたような格好が妙に生々しく感じられた。

 靴を脱ぐとあらわになる靴下はキャラクターものだ。スポンジ何とか言う黄色やつ。

 なにこれ、エロい。同棲しているみたい。普段はかっちり固めているからこそ、この不意打ちは胸に迫るものがある。生活感が垣間見えるのは悪くない。

「食べさせてくれるというか……ウーバーイーツで頼むんだけど」

「は?」

「え?」

 まさか僕が作れるとでも?

 いやはや、ご冗談を。

 凪ママによる厳しい栄養管理下におかれていたこの僕に、カレーのようなハイカロリーを自炊する能力など備わるはずがないだろう。

 鶏胸肉の絶妙な蒸し方やブロッコリーの天才的な茹で方、ゆで卵の美しい殻剥きは誰にも負けない自信はあるが。

「この世界線の緑ヶ丘続は料理が出来ない」

 諦めた風にいう豊四季。

「料理ができる世界線もあるのか……ちなみに、教えていないのに僕の家を知っているのも、前の世界線の影響か?」

「そういうこと。行くわよ」

 部屋に上がったのも束の間、玄関へ向かう豊四季。

「行くって、どこへ……?」

「緑ヶ丘続、寝ぼけているの? スーパーよ。あたしが作る」


 豊四季とお互いにラフな格好で、近所のスーパーへ買い物に行く。

 同じ部屋から出て、同じ部屋へ戻る。

 不思議な感覚だった。

 僕がカートを押しながら、彼女が食材をカゴの中へ入れていく。

 鮮度や賞味期限を吟味しながら食材を選んでいくその姿は中々様になっていた。

 表情もどこか楽しそうだ。客観的に僕たちを見たら、きっと仲睦まじいカップルに見えるのだろうな……なんてことを考えた。

「へえ、脂質がカットされているインスタントカレーなんてあるのか」

「お米を玄米にすれば文句なしね。ローファット・ダイエットは、一頃よりも格段に難易度が下がっているわ」

「詳しいな……」

「ええ、筋肉系ユーチューバーが言っていたわ」

 まさかのユーチューブ情報。現代っ子かよ。


 会計時に気が付いたが、しれっとマシュマロが入れられていた。

 ……なに? カレーの隠し味にでもするの?

「袋は有料ですが、いかがいたしましょう?」

「あ、お願いしま――」

「結構です、エコバック、持っています」

 僕を遮って答える豊四季。マジかよ。生活力が高すぎる。

「そんなに嵩張るものでもないでしょう」

「僕なんかは、コンビニでジュースを買った時でも貰っちゃうけどな……」

「どうして?」

 心底不思議そうに首を傾げる。

「袋代を節約するようなケチなやつだと思われたくないから」

「サステナビリティの欠片もない上に、恐ろしくみみっちい理由。どうして私はこんなやつを」

「え? なに?」

「なんでもない」

 ぷいっと視線を買い物カゴに戻した。最後の言葉は上手く聞き取れなかった。

 袋詰めを手伝おうと手を伸ばしてみたが「邪魔」とにべもなく振り払われた。

 スーパーの出口付近で立ちすくんでいるお父様たちを見て「何をしているんだろう?」と不思議に思っていたものだが、ようやく理解した。

 あれは、戦力外通告によって手持ち無沙汰になった者たちの掃き溜め――いいや、成れの果てだったのだ。

 あっという間に袋詰めは終了。確かに、これだけの手際ならば僕の出る幕はない。

 ん、と差し出された荷物を受け取る。

 僕にできることはこれくらいだ。役割があるだけまだ良いだろう。一番恐ろしいことは、何もする事がない状態だ。

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