《凪の日記④(後編):五月二日》
ある日のことだった。
あたしは、彼の上履きに画鋲を入れる人影を見た。
よく見るとそれは、川原塚くんと友達の北松戸くん、小根元くんだった。
日頃から彼に対して暴力を振るったりするグループだ。許せなかった。
この時ばかりは、男子に立ち向かう恐怖よりも、怒りの方が強かった。
「何をしているの?」
詰問するような口調で問い詰める。
「あ?」
「何をしているの?」
あたしの顔を見て何かを理解すると、二ヤリと下卑な笑顔を浮かべた。
川原塚くんは、二人に何かを耳打ちするとこっちへ向かってくる。
そして、腕を掴み「ちょっとこい」と強引に引っ張られた。
「いやっ! やめて! 離して」
じたばたと抵抗を試みるも、全く敵わない。
下卑た笑顔が脳裏にこびりついて、不安が襲ってきた。
先程まではなかったはずの恐怖が、唐突に襲ってきた。
足が震え出す。助けを求めるために声をあげようとしたが、口は既に塞がれていた。足掻くこともままならず、強引に屋上まで引き摺り込まれてしまった。
人の疎らな放課後、それも屋上からでは、どれだけ大きな声を出しても届かない。
「宿連寺さん」
河原塚くんが問いかける。
「緑ヶ丘を助けたいか?」
「…………え? それは、どういう……?」
「文字通りだ。俺の言うことを聞いてくれたら、もう手は出さないと約束する」
「…………本当?」
藁をも縋る思いだった。《約束》という言葉に希望を抱き、特別な意味を見出していたあたしにとって、それは光そのものだった。
「何でもします……お願いします。これ以上、彼を傷つけないでください」
魂の叫びだった。もうこれ以上、彼の傷付くところは見たくなかった。
その悲しみや苦しみから解放されるのなら、どんな要求でも受け入れよう。
「分かった……それじゃあ、お願いを聞いてもらおうか」
狡猾、下衆、下品――知性など一欠片として存在しない下卑た笑顔を浮かべた三人。
ここまで不愉快な笑顔があるだろうか。
「俺と付き合え」
「それは…………」
私は、逡巡する。
そうする事で、彼がもう傷つかなくなるのなら――。
「ごめんなさい……それは、できません……」
それでも、私は、受け入れる事が出来なかった。
「それ以外の事なら何でもします……だから、どうかお願いします……」
「そうか……そんなに………緑ヶ丘の事が好きか…………」
河原塚くんは、悲しそうな顔を俯かせて、深い溜息を吐いた。
その俯いた顔が上がった時に見えた瞳が酷く歪んでいた。
そして、それは、思い過ごしではなかった。
「それじゃあ、仕方ないな…………服を脱いで貰おうか?」
ニヤニヤと鼻息を荒くしながら言い放たれた。
最低だと思ったのと同時に、弱いことは悪なのだという事を理解した。
あたしたちは、弱い。
だから、奪われる。虐げられる。
こんな底辺に――最低に屈さざるを得ない自分を呪った。
それでも、あたしが、彼を救えるのなら……。
「分かりました。その代わり、緑ヶ丘くんには、二度と手を出さないでください」
彼が苦しみから解放されるのなら、このくらい造作もないことだった。
シャツのボタンを一つ、また一つと外していく。
三人の歓声は、どこか遠い世界のもののように感じられた。
ゆっくりと時間をかけてボタンを外して、シャツを地面に置く。
衣ずれの音が悲しく響いた。
白いキャミソールが顕になると、僅かに大きくなり始めた胸が強調された。
「おお……思ったよりも、いい胸してんじゃん」
「緑ヶ丘なんかには、もったいねえ」
目を背けたくなるような視線に寒気がした。
スカートはあっという間だった。ホックを外すと、ばさりと低い音を立てて、地面に落ちた。
掴んだ砂がさらさらと指の間を滑り落ちるように、あっけないものだった。
「ピンクかー」
「悪くねえな」
ずるりと涎を吸う音。思わず耳を塞ぎたくなった。
それと同時にシャッター音。
全てがどうでもよくなった。
惨めだった。悔しかった。頭が痛かった。
「あーあ、こんな姿を撮られたら、もうづっくんのお嫁にはいけないな?」
悲しくて、悔しくて、涙が溢れた。
「おい、早くしろよ」
……ごめんね、づっくん。
心のなかで、そっと呟いた。
あなたが守ろうとしたものを、自分で壊してしまった。
こんな風にならいように、あたしを遠ざけたということを、この時になってようやく理解した。
本当に大切なものだからこそ、遠ざけたのだ。
痛いほどに、その優しさが伝わった。
本当にごめんねっ――そして、ありがとうっ。
でもね、づっくん。大好きな人が傷付く事で手に入る幸せなんて、いらないんだよ。
そんなものは、受け取れない。傷付くのであれば二人で――舐め合いだと言われようとも構わない。二人で一緒にいよう。
《約束》を――あたしは守るよ。
後は、キャミソールと下着を脱げば、一糸纏わぬ姿になる。
歯がガタガタと震えた。けれど、それを悟られないように、グッと食いしばる。
その際、口の中に血の味が広がった。
これが……弱い者の味だ。
悔しさは、血の味がすることを知った。
二度と忘れない。
強くなるために。
この屈辱を、絶対に糧にするのだと、強い決意を胸に抱いて。
「――早く脱げって言ってんだよ」
野次が飛ぶ。
意を決し、キャミソールに手を掛けた――その時だった。
ガターンと重たい音がして、屋上の扉が開いた。
そこに現れたのが誰なのか。見なくても分かる。
こんな時に、助けにきてくれるのは、いつだって――……。
「づっくん……」
「凪……」
ただ、名前を囁き合っただけ。
それも、夕方の風に吹かれて消えてしまいそうな、風前の灯火のような小さな声。
たったそれだけのこと。
けれど、あたしたちには、それだけで、たったそれだけの事で、全てが伝わるのだった。
もう一度、彼の名を呼ぶ。張り詰めていたものが一気に緩み、涙が止まらなかった。
「大丈夫。何があっても、僕が君を守るから――」
警察官であったづっくんのお父さんは、常々、
「大切なものを守れるぐらいには、強くなければならない」
と言っていた。
「お父さんのような警察官になる」ことが夢だった彼は、幼い頃から柔道や空手、ボクシングなど一通り教え込まれていた。
要領が良かったようで、時折、大会でも優勝していた。だから、喧嘩になったら負けるはずがなかった。
それでも、いじめに対して力で対抗しなかったのは、
「自分のために力を使ってはならない」
という、お父さんの教えを厳格に守っていたからだ。
「その力は、大切なものを守るために使うんだ」と。
だから、今日は、これまでとは違う。
なぜなら、あたしのため……だから。
彼自身のためではなかったらから。
そこに容赦や手加減といった概念は、一切存在しなかった。
怒りに歪んだ彼の顔は今でも鮮明に脳裏にこびりついている。
三人を相手に力の限りを尽くした。小根本くんと北松戸くんの二人が逃げ出し、助けを呼ぶまで、それは続いた。
「僕はともかく……! 凪に手を出したことだけは絶対に――絶対に、許さない」
彼らのスマホを奪うと、その中のデータを削除した上で、粉々にした。
「この手が、この指が、この口が……! 凪を傷つけたんだな……!」
川原塚くんの顔は腫れ上がり、腕は二本とも折れていた。
「……っあ……」
もはや口も聞けないほどに、痛めつけてもなお、止まらなかった。怒りが鎮まることはなかった。
駆けつけた先生たちの制止もまるで意味をなさなかった。
「もう、いいよづっくん……」
あたしが後ろから抱き締めるまで、彼は力を振り続けた。
「ごめん、凪……、ごめん……」
「づっくん、ごめんねえ……、づっくんが守ろうとしたものを壊しちゃったぁ……」
「僕がもっと強くいられたら……ごめん……ごめん……」
「ううん……違うの……あたしが弱かったの……ごめんね……ごめんね……」
抱き合った二人の慟哭が、暮れ始めた空に響いた。
拠り所を求めてさまようものたちの叫び声が天高く、どこまでも遠く、響き渡った。
遅れて訪れた先生たちも、身動き一つできなかった。
この時、あたしたちは誓い合った。
「もう、離さないよ」
「ずっと、《永遠》にっ」
「約束だよ――」
「――約束っ」
小指をつなぎ合わせて、泣きながら笑った。
そして、決意する。強い存在であろうと。
当然、刑事事件になりかけたものの、防犯カメラの映像にあたしが強引に連行される姿が映っていたこともありお互いに赦免となった。
一方的に被害者を気取った向こうの親たちも、服を脱がせたことが明るみに出ることは避けたかったみたいだ。
狭い街だから、噂が人を殺しかねない。
目に見える嫌がらせは収まったものの、いよいよ完全にあたしたち二人だけが孤立した。
けれど、それでも構わなかった。
例えこの世界の全てを敵に回しても、彼がそばに居てくれたなら、それだけでよかったから。
孤立した状況は、中学校に入ってからも変わらなかった。
この街では、ほぼ全ての生徒が同じ中学校に進学するからだ。
両親から私立への進学も提案されたが、この時のあたしには、成績が足らなかった。
当時から成績の良かった彼だけでも、そうして欲しいと言ったが
「凪を一人にはさせないよ」
と、こともなく笑った。
あたしたちは強くなろうと励んだ。
高校生になったら、この街を出ようと。
あたしたちを知っている人間が誰もいない高校を目指そうと。
私立柏葉高校は打って付けだった。
通学時間は長くて大変だけれど、県内トップクラスの進学校であるから、この中学校からの志望者はいなかった。
三年間、必死に勉強に励んだ。
嫌いな勉強も、彼との明るい未来のためなら頑張ることができた。
みるみるうちに成績は上がり、五百点満点で四百九十点台がスタンダードの水準になるまでになった。
人は、願いがあれば強くなれる。
希望が未来を切り拓く。
興味本位で煽ってくる人、あまつさえ手まで出してくるような卑劣な人間も確かにいた。それでも、あたしたちは耐えた。
――やり返さないこと。
――手を出さないこと。
これが、二人の決め事だった。
暴力事件を起こして謹慎になった時のことを考えたら、もう手を出すことはできないと彼は言った。
あたしとしても、彼に手を汚して欲しくはなかった。
屋上での一件以来、づっくんは、あたしを一人にすることを極端に恐れるようになった。
毎日のように自宅へ迎えに来て、送り届けてくれるのには、そんな過去があったからだ。
いつ何時、誰に襲われるか分からないから、と。
パパとママも「無理しなくていい」と言ったものの
「これは僕のためにしていることでもありますから」
と、頑なに譲らなかった。
だから、あたしたちは、二人で耐える道を選んだ。
ただひたすら耐える道を選んだのだ。
* * *
これが、あたしたちの過去だ。
あたしたちが見てきた景色、生きてきた世界。
振り返ると、どうしても沈んだ気分になってしまう。
でも、辛いことばかりではなかった。
二人だけの放課後や静かな図書室、変わらない通学路、二人で抜け出した修学旅行、屋上で過ごした文化祭。
どれもかけがえのない時間だった。
だから、せめてここからは、これからのことを綴りたい。
叶うならば、あなたとの輝かしい《現在》を記すことができますように。
――五月二日
人は、欲しい答えがあるからこそ、誰かに問いかける。
さすれば、あの時のあたしは、一体どんな答えを期待していたのだろう。
もしも仮に、あなたが波ちゃんの事を「好きだ」と言ったなら、あたしはどのように振る舞う事が正しいのだろう。
そんなことを、茫洋と考えながら、今日も眠りにつく。
大切なあなたが、今夜もやさしい夢が見られますように――と願いながら。
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