《二話:深い闇に飲まれて、どこまでも》

「懐かしいなあ。未だに恋人ごっこなんかやってるのかあ」

 六人組の集団だった。

 そのうち三人の顔を僕は知っている。

 

 忘れもしない……河原塚、北松戸、小根本だ。


「なになにー? 知り合い……?」

「知り合いっつーか、因縁があって、な?」

「めちゃめちゃ可愛い子じゃん。隣の野郎なんて放っておいて、こっちで遊ばない?」

 軽薄そうな、仲間の男がいう。

 こいつは知らない。恐らく河原塚たちが高校で出会った奴なのだろう。

 汚れた手で、軽々しくも凪に触れようとする。

 そんなことはさせない。

 凪には、指一本だって触れさせない。

 庇うように凪の手を引いて、この場からの撤退を選択する。

「行こう、凪」

「おい待てよ……行きたければ、お前だけ行ってろ……!」

 立ち去るために背中を向けたのが悪かった。相手を視線の外に置くなんて我ながら愚の骨頂だ。普段ならそんなミスはしない。

 自分から冷静さが失われている証拠だ。背中に衝撃が襲い、踏ん張り切れずに倒れる。どっと笑い声が上がる。

 どうやら蹴飛ばされたらしい。


「づっくん……!」


「久しぶりに聞いたぜ、その呼び方」


 ぺ、とガムを吐き捨てる北松戸。

 安い染め粉を用いた事が一目で分かる金髪。

「や、やめてよ……、なにするの……?」


「なんだよ宿連寺、俺たちに文句でもあるのか? 大切な、大切な、づっくんを守りたければ、黙ってこっちへこいよ……なあ……?」


 下卑た笑みを浮かべる川原塚。

 それでも凪は動じない。

「気安くづっくんなんて呼ばないで」

 凍てつくような口調で跳ね除ける。

「……大丈夫? づっくん……」

 心配そうに僕のそばへと駆け寄ってくる。背後で舌打ちが聞こえた。

「凪も大丈夫か? 悪かったな……僕は大丈夫だ」

 互いの無事を確認しあう――が。

「ボソボソ喋ってんなよ、不愉快なんだよ!」

 川原塚の蹴りが屈んだ僕の鳩尾に入る。

「……っう、があ」

 しかし僕は、それを黙って受け入れる。

 一発二発……次々と。北松戸と小根本まで加勢してきた。

「おい、お前ら、ちょっとやりすぎだろ……」

「こいつとは因縁があってな……、なあ、緑ヶ丘……? 俺は忘ねえぞ」

 仲間の制止を振り切り、上から見下してくる川原塚の顔を眺める。


「俺はあれから……強くなったぞ。お前に勝つために……そして、宿連寺を開放してやるために……!」


 僕はこの時になって、ようやく気が付いた。

 河原塚は、凪のことが――。


 ふふ……と思わず笑ってしまった。

「なにを笑ってんだ?」

 顔面に衝撃が走る。

 視界が急速に回転し、気がつけば天を仰いでいた。

 馬乗りになって殴られる。

 でも、まるで、他人事みたいだった。

 三人からの容赦ない暴力。

 それでも僕は、黙ったまま、ただそれを受け入れる。

 抵抗はしない。


 それは、二人で……僕と凪で決めたことだから。

 何があっても、手は出さない――それが僕と凪で決めた事だ。


 冷静さを取り戻している自分がいた。

 凪との《約束》を守っている満足感が確かにそこにあった。

「お願い……もうやめて……づっくん……」

 涙声で僕の名を呼ぶ声が聞こえた。


「なあ、宿連寺。こいつに縛られて……お前の人生はそれでいいのか?」


 川原塚が分かったような事を言う。


「自分の人生を生きろよ。お前は笑っていた方がいい」


「……あたしの人生は、あたしが決める……! 他の誰にも決めさせない!」


 睨み合う二人。刹那の間。

「はあ……」

 ため息を一つ。

 川原塚の顔に、一瞬だけ影が差した。


「ふん……自分で決める? 笑わせるなよ。お前は緑ヶ丘に守られているだけだろうよ。そして、王子様を気取った緑ヶ丘がそんな自分に酔う。だから、お前らは恋人ごっこなんだ」


「違う!」


 否定の言葉を発したのは、果たして僕だったろうか。

 それとも凪だろうか。

 混濁し朦朧とする意識のせいで、よく分からなかった。

 再び凪に触れようとする川原塚。

 それだけは許さない。

 触れられる前に、凪を引き寄せる。


「やめろ。豚の手で触れていいものじゃない。豚に真珠という言葉を習わなかったのか? お前に凪は分不相応だ」


 静かに、そして努めて平静を装いながら、言う。

「ああ? お前、今、豚って言ったか?」

 先程、止めに入ってくれた仲間が語気を荒げる。


 相手は複数人。

 対して、こちらは僕一人。そしてなによりも守るべきものがいる。

 まさに多勢に無勢。

 無茶はできない。

 僕が袋叩きに合うだけならばともかく、凪に危害が及ぶことだけは、何があっても、絶対に避けなければならない。


 どうする?

 考えろ。

 この状況で、凪に指一本触れさせず、かつ、安全に退避させる方法を――考えろ。

 頭を使え。

 この状況で、もっとも有効かつ効果的な方法。

 どんな手を使っても――……


 どんな手を使っても?


 そうだ。凪さえ守り通せるのなら――……例え、どんな手を使っても。


 もしも仮に、二人の決め事を破ることになったとしても。

 凪さえ、守ることができたなら。


 僕は決意し、立ち上がると、川原塚の腕を捻りあげる。

「ぐあっ……!」

 身を翻し、僕から逃れた河原塚は、間合いを取ってから言う。

「はっ! 緑ヶ丘! 《あの時》から何年経っただろうな……? リベンジマッチだ」

「掛かってこい。ぶちのめしてやる……!」


「俺はもう、あの頃ほどに弱くはない。お前に負けてから、俺は強くなった。俺なりに積み重ねたものがある。負けない!」


 そうして殴り掛かってくる河原塚の動きは、確かにそれなりのものだった。

 僕は、河原塚の力量を図るために、一度、注意深く受け身に回る。


「おいおい緑ヶ丘! そんなもんかあ? それとも、俺が強くなったか! やれる!」


 しかし、粗さも目立つ。

 恐らく、河原塚の言う「強さ」とは、数え切れないほどの実戦を通じて習得した……喧嘩の慣れによる恐怖心の麻痺を指している。

 躊躇なく人間を殴ることには、一定の慣れが必要だ。


「あの時の雪辱を晴らすために俺は……! 今日まで……!」


 中学時代、河原塚たちが喧嘩に明け暮れているという噂をよく耳にした。

 歪むその表情を、僕は真っ直ぐに見る。

 きっと言葉は届かない。

 飛んでくる拳を交わし、いなしながら、

 僕は、そう判断した。だから僕は――。

「終わらせる……!」

「……ぐああああああああ!」

 叫ぶ声。

「この腕がどうなってもいいんだな?」

「ああああああ!」

「これ以上、凪に触れてみろ……どうなるか、分かるな……?」

 人質に捕るような形で三人に対して牽制を図る。

 これで相手は動くことができなくなった。

 そして、僕は川原塚の耳元で囁く。


「お前は確かに強くなった……。けれど、その復讐心が……僕が凪を想う気持ちを超えることは――断じてない……!」


「て、てめえ!」

「《あの時》みたいになりたいか……? 悪いが、僕は、凪のためならば――」

「ああああああああああああああっ」

 先程とは比べ物にならない音量の叫び声が響く。

 骨と骨とが擦り合う嫌な音。

 関節を外しただけだ。折った訳ではない。

 それでも、相手の動きを止めるには充分だった。


「――――凪のためなら、僕は人だって殺してみせる」


「緑ヶ丘……! 正義のヒーローを気取るのもいいけれどな、お前のエゴが宿連寺を縛り付けていることに……まだ気が付かないのか?」

「――少し黙ってくれないか?」


 ぽきり。親指の関節を外してやる。

「ぐああああああああああああ」

「お、おい……」

 愕然とし、後ずさる仲間たち。

「うあああああああああああ」


 ――人差し指。

「緑ヶ丘……お前……」


 《あの時》と同じ恐怖の表情を浮かべる北松戸と小根元。

 僕から逃げようともがく川原塚。

 しかし、逃さない。

「格闘技は一通り習得している……簡単なんだよ、お前たちを殺すことくらい…………」

「っぐああああああああああ」

 

――中指。


「これまで僕たちが、無抵抗だったのは、それが凪の希望だったからだ。お前たちを苦しめないために、僕の手を暴力で染めないようにと、自分は我慢するからと慮ってくれたんだ。そんな凪の気持ちが、お前たちには分からないのか……!」


「づっくん……、もう……もう……それ以上は……」

「お前たちを倒したとことで何も変わらない。僕たちが、凪がこれまで以上に孤立してしまうことは目に見えた。だから、僕たちはこれまで、誰に何をされても、黙ってやり過ごして来たんだ。ただ受け入れようと。その先にある、光に輝く未来のために、今は我慢をしようと」


 ――薬指。

「あああああああああああ」

「ようやく辿り着いたこの平穏な日々を、脅かす存在は誰であっても許さない」


 ――小指。

「あああああああああああ」

 叫び声を上げながら、地面にひれ伏す川原塚。

「もうお終わりか? まさか、これまで好き放題した報いがこの程度だとは思ってないだろうな…………?」

「俺は……! また負けるのか……! あああああ!」

 苦悶に歪む顔を見ても心が反応しない。

 どこまでも堕ちていくような感覚。

 深い闇に飲まれて、どこまても、心が死んでいく。

 怒りとも違う。ただ悲しみに浸されて、虚無が視界を覆う。

 何もない僕たちから、この日常までも取り上げようする現実が、憎くて仕方がなかった。

 なぜ僕たちだけがこんな目に遭わなければならないのか。

 なぜ、凪は穏やかに生きられないのか。

 僕たちが……凪が一体、何をしたというのか。

 ……ああ、でも、そうか。

 川原塚の言う通り、僕のせいなのかもしれない。僕がいるから、凪はいつまでも――。



 ――づっくん!

 僕を呼ぶ声が……遠く、どこからか。

 待っていても何も変わらない。欲しいものがあるのなら、自らの手で掴み取るべきだ。

 守りたいものがあるのなら、守るべきなのだ。そのために僕は強くなった。

 君と笑って、歩けるように。他愛もない日常を《永遠》にするために。


 ――ねえ、づっくん……!

 深く――深く、どこまでも落ちていく。視界がぼやける。何も聞こえない。

 ここは、静寂の世界。暗闇が僕の足を掴んで離さない。

 このまま、戻って来られないかもしれない。

 けれど、それでも構わなかった。凪を守ることができるなら――。

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