《三話:ただ、それだけのことだったはずなのに。》

 ――ねえ……づっくん!

 こんな時でも耳に届くのは――君の声。

 笑顔が似合うその顔を、再び涙で濡らしてしまった。

 その涙を拭いたい。

 けれど、身体が動かない。君に触れられない。

 このまま進んではいけない。

 僕はもう凪の隣にはいられなくなってしまう。


 頭では分かっている。

 けれど、止まらない。

 もう、終わりなのかもしれない。

 短かったけれど、この一ヶ月間は楽しかった。

 結局は自分で壊してしまうのかと、柄にもなく後悔を――。



「――やめなさい」

 ぴしゃりと、水を打つような声が、僕の動きを止めた。

 辺りは静まり返り、僕の荒い息遣いと、川原塚の掠れた喉音がひゅーと鳴った。

「随分と、手荒な真似をするのね」

 曖昧だった意識が、逆流して、鮮明になる。


 豊四季の声だった。


 世界に、僕の視界に色が戻ってきた。

 丁度そのタイミングで、この状況には不釣り合いな『夕焼け小焼けのメロディ』が響いた。

 それはかつて、僕と凪に、今日という日が終わる事を告げる悲しみの象徴だった。

「ああ……すまない、つい」

「緑ヶ丘続、あなたには言っていない。このチンピラ共のこと」

 やり過ぎた僕を咎めるものではなかった。

「お、お前、誰だ? 取り込み中だ」

 凄む小根元。この期に及んで、虚勢を張れるその胆力は見上げたものだと思う。

「緑ヶ丘と凪の連れだけど、何か?」

 仁王立ちで凄む豊四季に黙る小根元。

「もう一度言う。あなたたち、随分と手荒い真似をしてくれた」

「お互いさまだろう……それに」

「ここに一部始終を記録した動画――急に襲いかかってきた様子が収められている。警察に突き出されたくなれければ、今すぐ消えなさい。そして、二度と目の前に現れないで」


 毅然と言ってのける豊四季はやはり、圧倒的で絶対的。

 その凛とした強さに――全てを包み込むような大きさに、暖かさを感じる僕がいた。

 僕が手に入れる事を諦めたはずの温もりを、豊四季ならば――。

 深い闇に堕ちていく僕に、希望の光をもたらした豊四季波という存在。


 その後ろ姿を眺めながら、僕の頭には、二つの考えが浮かんでいた。

 一つ――僕が凪にできる事は、もう何一つ残されていないかもしれない、という事。

 そして、もう一つ。

 豊四季に身を委ねてしまうのも、悪くないかもしれない。


 ――なんて、まるで戯言みたいな事だ。



 いつの間にか陽は沈み、夜空に一番星が瞬いていた。

「……凪……大丈夫か?」

「うう……づっくん……怖かった。恐かったよ……」

「ごめん、ごめんな……、また僕のせいで……僕のせいで……」

「違うの、守ってくれて、本当にありがとう……。でも、怖かった……づっくんが、遠くに行ってしまいそうで、あの時の目をしていて……、もう帰ってこないかもしれないって、そう思うと怖かった……」


 涙を流す君に、僕ができることは、果たして――。

 本当に、君のそばにいること自体が間違いなのかもしれない。

 今や僕よりも遥かに強い豊四季がいる。

 能力も、武力も、何もかもが、僕の上位互換である豊四季であれば、凪を守ることなど容易いだろう。

 ただ謝ることしかできない弱い僕を、それでも君は必要としてくれるだろうか。


「ひとまず……、行きましょうか。少し行った場所にベンチがある」


 いつまでもその場に留まる僕たちに、先へ進むよう促した豊四季。

 特に深い意味などなく、この場を離れようという趣旨の言葉だった。

 けれども、その言葉には、もっと違う意味が込められているような気がした。


 前に進みなさい。

 立ち止まっているんじゃない。

 止めた時計の針を進めなさい。


 そんなふうに言われている気がした。

 目を逸し続けてきた様々なことに、向き合う時がきたのかもしれない。

 ベンチに腰を掛ける。

 少しずつ、落ち着いた様子を見せる凪だったが、その声音には依然、不安の色を孕んでいた。

 こんな時、どのような言葉を掛けたらいいのか、僕には分からなかった。

「心配はいらないよ。安心して」

 とでも言えば良いのだろうか……ふざけるな。

 心の中で一笑に付す。

 不安の元凶こそが僕なのだ。

 どの面を下げてそんなことを言えばいい。戯言にも程度というものがある。



 あの頃は、凪の求める言葉を、求められている時に、届ける事の出来た実感があった。

 正しい言葉を、正しい時に伝えられている自覚があった。

 そして、それは決して自惚れではなかったはずだ。理解し合って、支え合えていた。

 しかしここのところ、どうにも分からなくなってしまった。

 あの頃のように、流れるように言葉が湧いてこない。

 雪が降るように優しく、花びらが舞い散るように正しく、太陽が昇り季節が巡るように――そんな当たり前に、凪へ届けられていた言葉たちは、今や見る影もなかった。

 出てくるものは、貧相な脳みそを無駄に使った絞りカスのようなもの。

 的外れで独りよがり。戯言ばかりだった。



 柏の葉公園からの帰路。

 幾度となく共に歩んだ、最寄り駅からの道を、凪と二人で行く。

 努めて明るい声音で話す凪。

 豊四季のマシュマロ焼きや凪の不注意で焦がしてしまった野菜の話をする。


 僕たちは沈黙が怖い。

 僕も笑顔で頷き、相槌を打つ。

 時折、大袈裟なリアクションを交えながら。

 当たり障りのない話題で沈黙を埋め、中身のない会話を続ける。

 話すべきことや伝えるべきことは数え切れない程あるはずなのに、お互いに核心には触れようとせず、目を背け続けている。

 これまで積み上げてきたものを守るために、僕たちは中身のない言葉で空白を満たそうとした。

 その行為に、大それた意味がある訳ではなかった。

 決して、逃げている訳でも、現実から目を逸しているつもりでも……ないのだと思う。


 あるのはたった一つのささやかで、切実な想い。

 願いと言ってもいい。

 例えそれが偽物で、中身のないものであったとしても。


「今が《永遠》に続けば良いのに」


 ただ、それだけのことだった。


 ただ、それだけのことだったはずなのに。

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