《凪の日記③:四月二十四日》

 三人でサッカーを観に行った。

 応援して、ゴールに喜び合って、勝って、抱き合って……前よりも距離が縮まった。

 学校生活にも馴染んで、お友達もたくさんできた。笑いの絶えない日々を過ごしている。


 けれど、彼の顔に、時折、暗い影が差すようになった。

 《あの頃》と同じ顔が怖い。

 どうしてだろう。

 分からない。

 分からない。

 昔は、彼の考えている事が、手にとるように分かったのに。

 いつからか、ぼやけて霞んで見えるようになってしまった。


 分かる。

 それは、あたしのせいなのだ。

 彼は、あたしとの《約束》に縛られている。

 本当は、もっと高く自由に飛ぶことができるはずなのに。

 あたしの存在が、こんなところに留まらせている。

 あたしは彼にとっての足枷でしかない。


  ……ごめんね。

 けれど。

 それでもあたしは、あなたの傍にいたい。

 だって、あたしは――……。


 あたしはもう、あなたなしでは、生きられないから……。



* * *



 彼と《約束》を交わした翌日――それは、春にしてはあまりにも寒く、冷たい雨が降る日のことだった。

 いつもなら起こしに来てくれるママがついぞ訪れず、少しだけ寝坊してしまった。

 眠い目を擦り「どうして起こしてくれなかったのか」と憤りを胸に抱えたままリビングへ向かった。 

 けれど、そんな文句をぶつけることは、結局できなかった。


「ああ、凪……ごめんね、起こすのが遅くなってしまって……」

 両親の雰囲気からただならぬものを感じ取った。

 パパの顔は明らかに蒼白で、ママが震えている。幼いあたしでも分かるくらいに動揺している様子が伝わってきた。

「どうしたの……? 何かあったの……?」

 震える声で尋ねると、パパとママは、優しくあたしを抱きしめた。

「大丈夫……大丈夫だから」

 聞いたこともないようなパパの震える声。

 それは、あたしにではなく、自分に言い聞かせるようにも感じられた。

「凪、いいかい? 学校が終わったら、お話がある。今日はお父さんが送り迎えをするから、早く帰ってきなさい」

「え、でも、づっくんは……?」

「…………続くんは、お休みするそうだよ。体調が優れないと……さっき連絡があった」

「そ、そっか……それなら仕方ないね……」

 両親の雰囲気にも、彼が体調を崩すことにも釈然としないまま、あたしはパパの運転する車で学校に向かった。

 晴れた日も雨の日も彼の隣を歩いた道を、車窓から眺める。不思議な気分だった。


 彼の居ない学校は、実に味気のないものだった。

 お友達はいたから、一人になることはなかったけれど、心にぽっかりと穴が開いた気分だった。

 パパの「お話」が一体どのような内容なのか気掛かりで仕方がなかった事もある。

 心ここにあらずと言う言葉を、身を持って実感した一日だった。


 放課後、約束通りパパとママが迎えに来てくれた。

 帰り道に「スターバックスコーヒーに寄らないか?」とパパが言った。

 「フラペチーノは月に一回」と宿連寺家では決まっていたから予想外の提案に喜びながらも、褒められるようなことをした覚えはなく、却って不審に思った。

 田舎によくあるドライブスルー方式で注文した抹茶クリームフラペチーノを啜りながら、車窓を打ち付ける雨を疎ましく思った。

 重たい雰囲気が車内を満たしていた。

 空気に重さがあることを、あたしはこの時に初めて知った。

 せっかくのフラペチーノは、全く味がしなかった。


 帰宅すると「荷物を置いて、手洗いうがいを済ませたら、リビングへ来るように」とパパ。

 一度自室へ。机の上には、今度、彼に貸そうと考えていた小説が置いてある。

 リビングに戻り、定位置に腰掛けた。

「凪、よく聞きなさい」

「うん……」


「続くんのご両親が……亡くなった」


「…………え?」

 時間が止まる音がした。おじさんとおばさんが……?

「交通事故だったそうだ」

 いつだって優しく、明るかったおじさんとおばさんが……?

 ママが静かに泣いていた。パパの目も充血している。

「嘘だよ……だって、昨日会ったばかりなんだよ? また遊びに来てって……」

 信じられなかった。いいや。もしかしたら、信じたくないだけかもしれない。

「凪……パパとママも信じたくない。けれど、これは本当のことなんだ……」

 頭がようやく現実を理解したとき、視界がぼやけ出した。

 涙が溢れた。そんなことが……そんな理不尽なことが起こるのか。しかし、そこでハッとする。

「……づっくんは……?」

「続くんは無事だ。お留守番をしていたから助かったそうだ」

 彼が無事――それだけが、不幸中の幸い。せめてもの救いだった。


 それからしばらく、彼は学校を休んだ。

 一人遺されてしまった彼を思うと、胸が締めつけられた。

 一人の夜に枕を涙で濡らしてはいないだろうか。ご飯はどうしているのだろう。

 授業も遅れてしまうから、あたしが代わりにノートを取っておこう。

 してあげたいことはたくさんあった。役に立ちたい。

 かつて、このあたしが彼に救われたように。

 一歩を踏み出すことができたように。

 今度は、あたしが彼を支えたいと思った。 



 彼に会うことを許されたのは、パパからお話を聞いた二週間後のことだった。

 人生で最も長く感じた二週間だった。パパに連れられて、彼の家に上がる。

 笑い声に溢れていたはずの部屋は閑散としていた。その落差が悲しみをより際立たせた。

 みんなで談笑し、ボードゲームをしたリビングに遺影が飾られている。

 現実を思い知って、再び涙がこぼれた。

 理解はしていたが、実際に現実を突きつけられると胸に迫るものがある。


「続くんは、二階の部屋にいるよ。行っておいで」

 パパが言った。こくりと頷いて、階段を上がっていく。

 ゆっくり、ゆっくりと。掛ける言葉を探しながら。

 この二週間、何度も頭の中で考えた言葉を、心の中で反芻しながら。

 コンコンと、部屋をノックする。返事はなかった。

 もう一度ノックしてみたけれど、やっぱり、返事はなかった。

 がちゃり――静かにノブを回し、恐る恐る部屋に入る。

 カーテンが光を遮る暗い部屋の真ん中で、ぽつりと佇む彼がいた。その姿はあまりにも痛々しかった。

 あれだけ大きく見えた背中が小さく感じられた。

 目は虚構を見つめ、闇のように黒い色をしていた。

 どんな言葉も無意味だと悟った。言葉では伝わらないと思った。

 今の彼に必要なものは、言葉ではない――そう思った時には既に駆け寄って、強く、強く、抱きしめていた。


「ごめんね……ごめんね……づっくん……一人にしてごめんね……」


 悲しくて、苦しくて、悔しくて。


「あたしは、何度もづっくんに助けられたはずなのに……一番、そばにいなくちゃいけない時に、力になることができなかった……ごめんね……ごめんね……」


 二度と離さない――もう、彼を一人にはさせない。そう心に誓った。これから先も、悲しいことは訪れる。

 理不尽な現実に傷つくこともあるだろう。

 運命は残酷だ。

 あたし達に、それを打ち負かす力はなどなく――ただ受け入れる事しかできないのかもしれない。


 しかし、悲しみや苦しみを共に分け合い、乗り越えていく事くらいは出来るのではないか。

 せめて、二人ならば、一人よりもずっと心強いのではないか。

 例え、傷付いたとしても、二人でならば、それが舐め合いなのだとしても、優しく包む事が出来るのではないか。


「な、ぎ……」

 擦り切れた声で、あたしを呼ぶ――そんな声さえ、愛おしい。

「無理しなくていいよっ。あなたの事は、あたしが守るからっ。ずっと一緒にいるからっ」

「……なぎ、……なぎ、……やく、そく」

「ずっと一緒だよっ……あの《約束》は絶対だからっ! 安心して、大丈夫だよっ」

 せめて、あたしだけは――。

 あたしだけは、彼が安らげる場所でありますように。

 そんな存在であれますように。

 それを聞いて、安心したのか、一瞬だけ笑った彼は、次の瞬間、全身の力が抜けたかと思うと声を上げて泣いた。

「ううう……あああああ……!」

 何かに縋るように伸ばされた手を優しく握る。

 あたしの胸の中で泣きじゃくる彼。宝物だ。あたしにとっての光だから。

「大丈夫だよっ。枯れるまで、気が済むまで」

「あああああああああああ」

 

 流せる涙があるのなら、流したらいいのだ。

 一人で立つことが苦しいのなら、寄り掛かったらいいのだ。

 気が済むまで、満ち足りるまで。

 いつまでも。潮が満ちては、引いていくように。


 どれくらいそうしていただろう。時が経つのも忘れていた。

「ごめん凪……この二週間、《約束》を守れなくて」

「ううん。あたしこそ……ごめんね。もっと早く来たかったんだ……」

「ありがとう。本当は、格好良い僕でいたかったのに」

 目を擦りながら言う。

「いいんだよっ。そんなあなたでも。どんなあなたでも」

 ようやく立ち上がった彼は、閉め切られたカーテンを開けた。

 いつの間にか、空は橙色に染まっている。

 それを見た彼は、もう一度、大きな声で泣いた。


 決して悲しみが晴れたわけではない。

 どれだけ時間が経ったとしても、癒えることのない傷がある。

 それでも、今日を生きていかなければならない。

 だからこそ、寄る辺が必要なのだ。

 彼にとってのそんな場所が、あたしであったらいい。

 彼の負った深い傷が、いつか癒えるその時まで――そして、その後も、永遠に。


* * *


 ――四月二十四日。

 過ぎゆく春と、そして、これから訪れる夏――季節の狭間にたゆたい、揺られながら。

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