《三話:永遠に続いて欲しい今と、かつての自分》
――四月二十四日。
入学から三週間が経過し、新しい生活にも慣れ始めた今日のこの頃。
木々は優しい桜色から瑞々しい新緑へと衣替えを始めており、そこからは力強い生の息吹が感じられた。
七限まで授業を終え一日のタスクを完遂すると疲労感が体を覆う。
中学校の頃よりたった一コマ多いだけのはずなのに想像以上の疲労感だ。
成績上位を維持しなければならないという気負いのせいか、はたまた意欲的に取り組んでいるせいだろうか。
隣に座る凪も、心なしかぐったりしているようにも見える。
僕は背もたれに寄り掛かって、天井を見上げながら「知らない天井だ……」とつぶやいてみる。
「知らなくはないでしょう」と冷めた突っ込みを入れてくる豊四季は飄々としていた。
《契約が果たされなかった場合、入学式の朝までリープしてしまう》
そんな彼女にとって、この授業は何千回と聞いたことがあるものらしい。
飄々としていられるのは、決して人並み以上に体力があるから、というわけではないようだ。
「私はテストで出題される問題を分かっている」
殊もなく言い放った豊四季。
……ある意味、実質的に僕が一位ということにしておきたい。
「実質的」や「本質的」といった言葉を使う人間の浅薄さは尋常ではないと常々思っている僕だが、しかし、今回はそういう事にして自分を褒める。
この歳になると自分を褒めてくれる存在は自分しかいないのだから。
「そろそろ行きましょう」
「そうだな」
「このために今日一日、頑張ったんだっ! 楽しみだねっ!」
これから三人で柏レイソルの試合を観に行く。
本当は、凪パパが観戦予定だったが、急な仕事が入ったらしい。
労働とは罪なのだと改めて思い知らされる。
しかもそのチケットは、普通に買ったら一番値段の高いSS席!
凪パパ、お仕事頑張って下さい!
試合前の柏駅には、ユニフォームを着たサポーターの姿がぽつりぽつりと確認できた。
「二人ともユニフォームは? 着ないの?」
「豊四季は予め着ていく派なんだな」
既にばっちりとユニフォームを着込んでいる豊四季。
ワイシャツの上からセーターのように重ね、その上にブレザーを羽織る女子高生サポーターの旬なスタイルだ。
それにしても、サッカーでも野球でも、スポーツのユニフォームというのはどうしてこんなにも可愛く見えるのか。
例えそれが豊四季であったとしも、少しだけ、ドキッとした僕がいた。本当に少しだけ。
ユニフォーム補正は間違いなく存在すると思う。
「緑ヶ丘続、そんなのは当たり前。我々サポーターはチームの看板を背負った広告塔でもあるのだから。私たちがこうして街中でユニフォームを着て宣伝することが結果的にチームの強化に寄与する」
ガチ勢だった。
「そ、そうだよねっ、あたしも着替えてこようっ!」
駅前のビックカメラのトイレに向かった凪を二人で待つ。
ダブルデッキを行き交う人々を見るともなく眺める。忙しない街の喧騒は、夕方であることを告げている。
「緑ヶ丘続」
「どうした?」
「私、今日の試合結果、知っているんだよねぇ……」
「おい」
「喋っちゃおうかな〜?」
最低だった。
「…………ちなみに、サッカーの結果みたいなのも、どの世界線でも同じなのか……?」
「よっぽどのことがない限り。例えば、あなたがピッチに乱入して試合を止めたりしたら、変わるかもしれない」
「なるほど……」
「だから、緑ヶ丘綴。レイソルのために、ピッチへ乱入しなさい」
「え……それは……負けるということ……?」
「……………………凪が来たわ。行きましょう」
「お前本当に最低だな!」
本当に最低だった。壮絶なネタバレだ。聞かなかったことにしておこう……。
徒歩で二十分程度の道をえっちらおっちらと進んでいく。
「お腹、空いちゃったなっ」
「そうだな。終わってからだと遅くなるし、始まる前に食べておこうか」
「賛成」
「あたしはなんでも……二人が決めていいよっ」
「うーん、そうだなあ……」
「それでは……」
「「珍来」」
「あ……」
「あ……」
「すごい! づっくんと波ちゃんの意見が一致したっ!」
「いや、ただ単にレバニラが恋しくなっただけだ……」
「私は、スポンサー様に貢献しようと……チケット持参で割引の特典もあるから……」
「二人とも……息がぴったりだねっ? 出会った頃が嘘みたいっ! お似合いだよっ」
「なにを言っているんだ凪」
「そうよ、凪。それはもはや侮辱」
「侮辱? どう言う意味だ?」
「文字通りだけど」
「そうしたら、あたしは、スタジアムで『侍』の唐揚げが食べたいっ」
いがみ合う僕と豊四季を華麗にスルーして話を進める凪。
僕たちの扱いはその程度で良いのだということを理解するには充分すぎるほど、この三週間で距離が縮まっていた。
「そうだな、三人でシェアしよう」
「賛成」
そして、凪は改めて言う。
「二人が仲良くしてくて嬉しいよっ!」
「凪、私は気がついた。この男に同調を求めること自体がナンセンスであると」
「え、僕、諦められたの……?」
「あはははっ!」
凪、その笑いは一体どういう意味だ……?
「でも、私は楽しいなっ」
ケタケタと笑う凪を見て、僕も思わず笑みが溢れる。
「今がずっと続けばいいのにっ!」
そうして笑う君の笑顔を夕陽が優しく照らしている。
やがて太陽は沈み、夜が訪れるだろう。
晴れ渡る空に雲が覆い、雨が降っては大地を濡らすこともあるだろう。
しかし、君さえ傍にいてくれたなら、どんなに暗い夜でも見失うことなく、この道を進んでいける気がする。
ずぶ濡れになって、足元が酷くぬかるむ道でさえ、躊躇わずに歩いていけるはずだ。
スタジアムにはキッチンカーが立ち並んでいる。
我々のお目当てである『侍』のからあげを入手し座席に着席。
三人でシェアする。何と言ってもここの唐揚げはサイズ感がたまらない。
「特大サイズのからあげ」という響きだけで幸せになれる。
胃もたれ必須なので、胃薬を忘れてはいけない。
「うーん、おいしいねっ」
「緑色のピッチを前にしていると、まるでピクニック。最高のロケーション」
二人とも満足そうだった。
「何だかもう……最高すぎて、勝ち負けなんてどうでもよくなってしまうよな!」
「は? 何を言っているの? 緑ヶ丘続。勝つために私たちはここにいるのだけど」
「そ、そうだよ、づっくん……。勝たないとダメだよう……」
そう言うと二人は、鞄からタオルマフラーとメガホンを取り出した。
そうだった、この人達、ガチ勢だった。
「なんか、すみません……」
選手が全力でプレーする。応援を口ずさみながら、手拍子に思いを乗せる。
得点が入って喜び、失点に頭を抱える。相手チームのラフプレーに怒りをあらわにする。
豊四季が、
「おい! ファールやろ! われ!」
と怒鳴り散らしていた。どうして関西弁なのか。
一方の凪は「いけーっ!」とはしゃいでいる。とにかくかわいい。
試合終了のホイッスルが、僕たちに勝利を告げる。思わず三人で抱き合う。
普段なら絶対に出来ない事だが、スタジアムという非日常の空間がそうさせた。
素敵な場所だと思った。年齢も性別も宗教も思想も関係なく、ここに集まった全ての人たちが同じチームの勝利を願っている。
レイソルが紡ぐその願いを束ねた祈りは、この上なく尊いものだと思う。
僕たちも感情を共有したことで、前よりも距離が近くなった気がした。
帰り道、並ぶ三人の肩は、来たときよりも、ずっと近づいていた。
それはまるで、夜道にお互いを見失うことがないよう、寄り添うみたいだった。
――楽しいなっ! 今がずっと続けばいいのに!
凪の言葉に思いを馳せる。確かに悪くない。
それは実に魅力的な響きだ。
このまま三人で、こんな時間を重ねていくことも、あるいは……。
暗闇の中を支え合い、お互い寄る辺としながら生きてきた僕と凪。
凪の青春に、暗い影を落としてしまった僕にできることは、この穏やかで甘い時間をいつまでも続けていくことなのかもしれない。
失った時間を取り戻すことはできない。
いつだって時間は、未来に向かって一方向にしか流れない。
瞬間の積み重ねこそが人生だ。過去をなかった事には出来ない。
しかし、過去は変えられる。
例えば、この美しい景色が、険しい山道を掻き分けて辿り着いた場所ならば。
例えば、この晴れ渡る青空が、嵐の海を越えた先に出会えたものだとしたら。
あの時間があったからこそ、この瞬間に繋がっていたのだと思えたなら、前に進むことが出来るのではないか。
あの時間にも、意味を見出すことが出来るのではないか。
かつての僕たちも、救われるのではないか。
しかし、そこまで考えて「いいや……」と自分で否定する。それは、詭弁だ。
――誰が? 誰が、救われるって?
どこからか、そんな声が聞こえた。
嗚呼……またか。
ゆっくりと瞳を閉じる。これは、かつての僕だ。かつての自分の声がする。
――誰が? 誰が救われるって?
凪が、だよ。凪の過去に、意味を見出すことができる。
――何だい、それは? そんなものは、お前の自己満足だろう?
違う、そんなことは、ない。
――贖罪のつもりかい? お前が救われたいだけじゃないか?
違う! 違う! 違う!
僕は凪のために言っているんだ!
――凪のためだと、ヒーローを気取り、自分に酔っているだけだろう?
違う違う違う違う!
――だったら、早く解放してあげたらいいだろう?
――新しい友達ができて、凪はもう一人じゃない。
御役御免だよ。
やめろ……
――凪は、お前といる限り、あの頃を忘れることができない。
――お前に縛られ続ける人生を歩むことになる。
やめろ……、やめろ……
――ほら、みろ。お前は、あの頃と何も変わっていない。
――そうして、これからも大切な人を傷付けながら生きていく。
違う違う違う違う違う違う違う違う
やめろやめろやめろやめろやめろやめろ
――自分だって理解しているだろう? お前は最低だ。
――あの頃だって、そうだった。
自分可愛さに、凪の青春を歪んだものにした。
やめろ違うやめろ違うやめろ違う
「づっくん……? ねえ、づっくんっ!」
腕を大きく揺すられて我に返った。
そうだ、豊四季と清水公園駅で別れて、凪を送り届けるところだった。
「あれ……ごめん……なんだっけ……?」
「づっくん大丈夫……? また、怖い顔をしていたよ……」
「嗚呼……大丈夫だ。少しぼーっとしただけだよ」
「心配だよ……最近のづっくん、たまにあの頃と同じ顔をするから……」
擦り切れてしまうほど小さく怯えた声だった。
最低だ。笑っていて欲しいはずの凪に、こんな顔をさせてしまっている。
僕は、君の隣を歩く資格があるのだろうか。
困ったように笑った君は、下を向きながら、言う。
「あたしのせい……だよね……」
「違う! 絶対に違う。凪がいたから、僕は今日もこうして、生きていられるんだよ」
「何かあったら、いつでも言ってね……? たまには、頼って欲しいよ……」
ありがとう。君はいつだって、僕を支えてくれる。
「づっくんが一歩を踏み出すことができないときに……暗闇に飲み込まれてしまいそうなときに、支えられるあたしでありたいよ」
凪の優しさに、僕は、いつまでも甘えてばかりいる。僕だけが、立ち止まっている。
「ごめん、凪。でも、大丈夫だから。あの頃とは違うから。僕も今が楽しいよ、本当に。嘘みたいだよ。ずっと……、ずっとこのまま。この日々が続いていけばいいのに、って。心から、そう思う。凪が笑っていられるこの日々が、いつまでも……」
見上げた夜空に、雲がかかっていた。
「そっか……」
そう呟いた凪の顔を、僕は見ることができなかった。
「君のため」と言い訳をして、理由を探しては、本当に大切なものから目を背け続ける僕がいた。
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