《凪の日記②:四月八日》
豊四季波ちゃんという、美しい女の子とお友達になった。
背が高く、手足はすらっと長い。とにかく可愛くて、隣にいる自分がひどく不釣り合いに感じられた。
少しだけ素っ気ないけれど、それがむしろクールだ。づっくんとも早速、打ち解けた様子で楽しい高校生活になりそう!
もっと、波ちゃんのことを知りたいと思った。
波ちゃんも一緒に、三人で歩む未来も、また――……。
* * *
初めて出会った日――の翌日。
「また明日」とは言ったものの、その約束をどのように果たせば良いのか分からなかったあたしは、途方に暮れていた。
あれは、冗談だったのかもしれない。
お世辞だったのかも。
期待するなどおこがましい……ネガティブな感情の渦に飲み込まれそうになる。
づっくんのお家はすぐそこで、会おうと思えばすぐにでも会える距離なのに。
部屋の窓からは、数羽の鳥が気持ち良さそう飛んでいく様子が確認できた。「うらやましいなあ」とぼんやり眺めていた。
けれど、やがてその青空も、曇天模様に変わってしまった。
季節外れの、夏の夕立を想起させる土砂降りが街を濡らした。無情に打ち付けられる雨を恨めしく思った。
「これじゃあ……づっくんには会えないなっ……」
ぽつり、無意識に口から放たれた言葉。
あたしはまた、理由を探して、諦めようとしていた。
そんな時だった。部屋がノックされ、ママが言う。
「お友達が来たわよ」
「え?」
驚いて、そんな……まさか、と脳裏に浮かぶ期待を払い除ける。
逸る足は止まらなくて、ママを置き去りにして玄関に向かうと、そこにはビショ濡れになった彼がいた。
「なんで……? どうして……?」
「昨日、約束したから……その、迷惑、だったかな……?」
あたしの表情を窺うように言った。
そっか。
彼も不安だったのだ。
あたしだけじゃなかったのだ。
それなのに、あたしは諦めていた。
降り出した雨を言い訳にして。
「ううん……! 嬉しいっ! 嬉しいっ! 本当にっ!」
彼は、約束を守ってくれた。本当に嬉しかった。
「本当に? あれ……凪、泣いているの……? 大丈夫?」
嬉しくて涙が出ることは、知識としては知っていた。
けれどそれは、御伽話の世界のことで、現実に起こり得ることとは思っていなかったから、自分でも驚いた。
「違うの……、どうしてだろう、おかしいなっ……」
全然止まってくれなくて、それを止めようと思えば思うほど、とめどなく流れ続ける。
さすがに彼も、戸惑っていた。
その涙は、タオルを持ってきたママが来るまで止まらなかった。
「凪は泣くほど嬉しかったんだって。これで身体を拭いて、お菓子の時間にしましょう」
彼も安心したようで、「お邪魔します」と丁寧に靴を揃えた。
それから、春休みの間、あたしたちはずっと一緒だった。
毎日のように、どちらからともなくお互いの家に赴いて、街を探索したり、雨の日には部屋で本を読んで過ごした。
あたしが、外に出て遊ぶようになったことを両親も喜んだ。
それでも、春休み最終日のあたしは少し憂鬱だった。
転校初日が嫌だったからだ。
曖昧な通学路、知らない人だらけの教室。
自己紹介が緊張する。
声が出なくなって、裏返って、笑われるのが恥ずかしかった。
それを打ち明けると親身になって解決策を考えてくれた。
「そうだっ!」
何かを閃いた彼は、本棚から一冊のアルバムを取り出した。
「クラス全員の写真。予め顔が分かっていたら、少しは緊張も解けるんじゃないかな?」
「づっくん、すごい!」
それから、一人一人の特徴や大まかな性格を丁寧に教えてくれた。
「こいつはサッカー少年。こいつは野球好きだけど、プレーするより観るのが好き。それでこいつは……」
聞くとあたしたちの学年は一クラスしかないらしい。
小さな街だから、そんなものなのかもしれない。
でもお陰で彼と同じクラスになれる。よかった。
それだけで、何とかなりそうな気がした。
それでも、朝が怖かった。
どれだけ事前の準備があったとしても、これまでに成功体験がなかったから。「失敗するんじゃないか」という不安が襲う。
浮かない顔をしていたのだろう。あたしの顔を覗いた彼は、殊もなくこう言った。
「朝、一緒に行く?」
「いいの……?」
気分が華やぐ。先ほどまでの沈んだ気分が払拭される。
その言葉をきっと、あたしは心のどこかで期待していた。
欲しい言葉を、欲しい時にくれる、それが彼だった。
「僕は全然構わないけれど……」
「やったぁ! 約束、だよ!」
転校初日の朝。
約束通り彼は、あたしを家まで迎えに来た。
「おはよう」と朝の挨拶を交わすのが、少しだけ照れ臭かった。
いつもより朝陽が眩しく感じられたのは、何故だろう。
自己紹介も上手にできた。
六度目にして初めての成功体験。クラスメイトも受け入れてくれた。楽しい学校生活をスタートさせることができた。休み時間に本を開くことはなくなり、灰色だった学校生活に彼が色を与えてくれたのだ。
下校も当然一緒だ。
当時、全国的に物騒な事件が相次いでいたこともあって、自宅が近い生徒同士で一緒に帰る「集団下校」が実施されていた。
不謹慎だとは思いながらも彼と一緒に帰る口実を得られたことが嬉しくて、小さく喜んだ。
そして、下校途中。例の駄菓子屋さんに隣接する名もなき公園のブランコに揺られることがあたしたちの日課になった。
学校では他の友達も交えて遊ぶことも多く、それ自体も確かに楽しかった。
けれど、二人だけのこの時間は、彼を独占している気がして、優越感が私を満たした。
あたしだけを見てくれている気がしたから。
とりとめのない話を夕陽が沈むまで続ける。
だから、陽の短い冬は嫌いだった。
この日々が《永遠》に続いたらいいと思った。宝物みたいにきらめく毎日だったから。
時は移ろい、いつくかの季節が巡った。
少し早めの成長期が彼に訪れて、あたしたちの身長差は瞬く間に開いていった。
それが妙に寂しくて、彼が遠くへ離れて行ってしまうのではないかという得体のしれない不安があたしを襲った。
幼かったあたしは、《永遠》を信じていたから。
この日々は《永遠》に続いていくのだと。
しかし、日に日に大きくなっていく彼の背中を見る度に「そんなことはあり得ないのかもしれない」と思うようになった。
「《永遠》ってどうしたら手に入るの?」
両親に問いかけた。
唐突な質問に驚いたようだったが、それでも真剣に答えてくれた。
「《永遠》……難しい質問ねっ……凪はどうしてそれが欲しいのっ?」
「今が楽しいから。ずっと続けばいいのにって」
「そっか……でもね、凪。残酷なことを言うとね、《永遠》に続くものなんて、この世界にはないんだよ」
「そうなの……? 悲しいね……」
ひどく悲しい顔をしていたのだろう。パパは、優しく笑うと私の頭を撫でた。
「悲しいだろう? だからこそ『今』この瞬間を大切にしなければいけないんだ。《永遠》には続かないけれど、続いていくようにと……願いながら」
「願い……?」
お星様にお祈りするようなものだろうか。
「例えば……、パパは、ママを永遠に幸せにすると《約束》したんだよ」
「約束……結婚のこと?」
「そうだね。結婚も、約束の……願いの一つの形かもしれない」
少し難しい話だったけれど、それでも何となくヒントを掴めた気がした。
――約束。
この瞬間を、《永遠》という時間の中に閉じ込めるためには、どうやら《約束》があればいいらしい。
パパが言うには、それはつまるところ、結婚なのだと。
この頃には既に、彼に対して抱く感情に「恋」という名前が付けられていることを理解していた。
好きな人と結ばれたいという思いは、年頃の女の子同様に持ち合わせている。
それならば、あたしがやるべきことは明白だった。
彼と結婚をすればいい。
《永遠》を誓い合えばいい。
いつもの放課後、いつもの夕方、いつもの公園。
日中に降った春の冷たい雨はどこへ行ったのか、空には大きな七色が浮かんでいた。
水たまりに反射する夕陽が美しく、その光景は宝石みたいに輝いていた。
物語の世界に入り込んだような感覚に、あたしは一瞬だけ呆然とする。
あたしたちの歩む未来を、この世界の全てが祝福しているようにさえ思えた。
夕焼け小焼けのチャイムが響いた後――帰ろうとする彼を、呼び止める。
「づっくんにね、お話があるの」
「どうしたの? 深刻そうな顔をして……」
いつもと違った真剣な表情で切り出したあたしを不安げに見つめている。
「あのね……《約束》をして欲しいの」
「《約束》……?」
「これから、どんなことがあっても、ずっとあたしと一緒にいるって《約束》して?」
「…………」
驚いて素っ頓狂な顔をする彼。
静寂が二人を、公園を――世界を覆う。
されどそれは、一瞬のことだった。彼は、すぐさま、いつもの笑顔に戻った。
「約束するよ。君を守ると……《永遠》に」
「本当……?」
「本当だよ。ずっと、君のそばにいる、守り続けるよ。いつまでも」
「よかった! 嬉しいなっ!」
笑顔でハミングを奏で、スキップしながら、づっくんの隣を歩く。
このままどこまでも飛んでいけそうなくらい、幸せだった。
あたしは、ついに《永遠》を手に入れたのだ。
「づっくん、《約束》だよっ!」
「《約束》するよ。凪と、いつまでも、どこまでも」
「ずっと、ずーっと、づっくんの側にいるからっ」
「ありがとう。僕も、ずっと凪の側にいるよ」
「だから約束だよっ」
「誓うよ――君との未来を、いつまでも」
「いつまでも、私を守ってねっ」
「いつまでも、君を守り続けるよ」
「どんなことがあっても、一緒だよっ」
「例え、この世界の全てを敵に回しても」
その日、あたしたちは、手を繋いで家路へ着いた。
手を繋いだのは、初めて出会ったあの日以来のことだった。
けれど、今日のその行為には、あの時とは決定的に違う意味が込められていた。
あたし達が繋がっていることを、互いに確かめ合うために必要なことだった。
手にした幸せが溢れ落ちないように、何度も、何度も、確かめる。
これからのこと、未来のこと――希望に満ちていた。
けれど、あたしたちは、知らなかった。
運命がどれほどまでに残酷で、過酷であるのかを。
運命という巨大な敵を前に、人は――あたしたちは、ただ立ち尽くすことしかできないのだということを。
この《約束》が、二人の人生を大きく変えてしまうことを。
* * *
――四月八日。
未だ冷え込む春の夜に、少しだけ身体が震える。彼の温もりを恋しく思いながら、明日を信じて眠りにつく。
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