第二章

《一話:もしも、凪と結婚したら》

 ――四月八日


 昨夜は、よく眠ることができなかった。キスの感触と彼女が最後に見せた寂しげな表情とが、頭にこびりついて離れなかった。


 もっとも、家まで送ると申し出た僕に対して「家が割れたら夜中に侵入でもされそう。思春期の男子は何を考えているか分からない」と別れる頃には通常運転だったが……。


 だとしても、キスのあとに垣間見えた、触れただけで壊れてしまいそうな脆さは、嘘や演技だとは到底思えなかった。

 頭の処理速度が猛烈に落ちていて、こんな日に何を考えても仕方がない。

 あまりにも生産性が低い。

 そうして、思考することを放棄した。

 食欲もない。ああ、でも風呂には入らないと……まどろんでいるうちに、眠りに落ちていた。


 朝五時のアラームで目を覚ます。

 必須アミノ酸のEAAを補給し、日課のトレーニングを行う。

 まずは、三十分のランニング。清水公園を周回する。春の朝は肌寒いものの、有酸素運動をしていれば、そのうちに汗ばんでくる。

 次に筋力トレーニング。昨日は胸を中心としたメニューだったから、今日は肩を中心に。器具はダンベルしか使わない。

 持論だが、ボディビルダーを目指す訳でないのならば、ジムなど必要ない。

 トレーニングを継続する上で大切なことは、何のために鍛えているのか、という目的意識だ。理由はなんでもいい。意志さえあれば続けられるはずだ。

 「ジムの会費を払うと、勿体なくて通わざるを得ない」などと抜かす輩がいるが、時間の無駄だから今すぐにやめた方がいい。ナンセンスにも程がある。ネットフリックスでアニメでも見ていた方がよっぽど有意義な時間が送られるはずだ。


 かくいう僕は、もちろん、《凪のために》鍛えている。

 凪に何かあった時、せめて力で負けないように。

 守る事ができるように。

 そのために格闘技も一通り習得した。柔道、合気道、空手……。今は、週二回ほどキックボクシングを習っている。


 ちなみに一時期は水泳も習っていた。

 凪が海で溺れてしまったときに「泳げません」では草も生えない。

 まあ、海どころかプールさえ一緒に行ったことがないけども。

 凪の水着姿……いつか見てみたいものだ。


 そんなこんなで朝六時。

 シャワーで汗を流し、朝食を摂る。レタスとサラダチキン、焼魚と雑穀米。

 健康的な食生活を心がける。

 常に凪の隣にいるために、健康でなければならない。

 風邪で学校を休む訳にはいかないし、凪より先に死ぬ訳にはいかないのだ。


 未だ身体に馴染まないブレザーと結び慣れないネクタイ。

 中学時代は学ランだったから、ブレザーを着た自分の姿が新鮮だった。

 凪は似合うと言ってくれた。

 髪の毛をセットし、鞄の中身を確認する。

 忘れ物は……ない。

 家を出る前に、仏壇に手を合わせる。


 ――父さん、母さん。今日も行ってきます。



 靴擦れを起こしそうな真新しいローファーも二、三日したら慣れてしまうのだろう。

 「強いものでも、知的なものでもなく、適応できるものが生き残る」とダーウィンは言った。

 時間を重ね、過去を上書きしていく。

 それこそが、慣れるという事だ。

 そして、慣れること、それは即ち風化することである。刺激に対して鈍感になっていく。

 人は、変化には敏感だとしても、風化には鈍感な生き物だ。


 それは決して悪いことではないのだろう。

 そうでなければ、生きていけないのだ。

 「現在」という瞬間を積み重ねた「過去」――人はその重さに耐えられない。


 凪の家に向かいながら、《あの頃》に思いを馳せる。

 大切な人を想う気持ちさえも、こうして風化してしまうのだとしたら、僕は変わりたくなんてないと思った。



 宿連寺家のインターホンを押す。

「おはよう、続くん。……うんっ! ブレザー、似合うじゃないのっ」

 語尾にハートマークをつけながら出迎えてくれたのは、凪の母。凪ママだ。

 ピンクのエプロンがよく似合っている。


「ちょっと、ネクタイが曲がっているかな? こっちおいでっ?」


 そうして優しく結び直してくれる。少しだけドキっとする。凪と同じ匂いがした。

 もしも、凪と結婚したら、毎朝こんなふうに至福の時間を過ごすことができるのか。

「ありがとうございます。まだ、上手に結べなくて」

「一週間もしたら慣れるわ。ちょっと待っていてねっ。あなた、凪、続くんよっ」

 家の中に向かって呼びかける凪ママの声。

 いつまでも、変わらない。

「おお。続、似合うじゃないか。そのチャラついた前髪だけは気に入らんが」

 自身の前髪をワイルドにかきあげながら、凪パパがお出ましになった。

「ありがとう。今度ネクタイの結び方を教えてよ」

「結び方にも流行があるからな。街を行くサラリーマンをよく見ておくことだ……しかし、それにしても、あのクソガキだった続が高校生か……うう……」

 暑苦しい。しかし、いつだって、父のように優しく振る舞ってくれる。

「パ、パパが泣いている……どうしたの……?」


 僕の生きる理由であるところの凪が登場。

 今日も天使が舞い降りた。世界は平和に包まれるだろう。

 僕の姿を認めると、ニコッと弾けるような笑顔でいう。


 ――おはようっ、づっくん


 この声を聞いただけで、笑顔を見られるだけで、今日も僕は、生きていける。

「続くんの制服姿に感動したんだって」

「なるほどっ! パパ最近、涙脆いもんね。昨日もあたしの制服を見て泣いていたし」

「それは分かる。僕も凪の制服姿を見た時は、さすがに感慨深かったな」

「お前のことだって、僕は息子だと思っているぞ」

 抱きついてきて、頭を撫でてくる。折角セットしたのに。

 早朝から男二人の抱擁など見るに耐えないと、凪ママが助け舟を出してくれる。

「ほら、あなたもその辺にして……。遅刻してしまうわ」

「そうか……。気をつけて行ってきなさい」

「それじゃあ……行ってきます」

「行ってきますっ」


 僕と凪は、春の陽射しが降り注ぐ道を行く。

 背後から「続」と再び声がかかる。

 振り向くと、凪の両親が笑ってこちらを見ていた。


「困ったことがあったらいつでも頼ってね」

「どんなに小さなことでもいい。力になるからな」


 頭が上がらない。両親を失くしたあの日から、この僕を支えてくれている。

「ありがとう……本当に。頼りにしているよ、二人とも」


 そして、もう一度「行ってきます」と言い、強く一歩を踏み出した。

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