《凪の日記①:四月七日》
入学式。
カーテンを開けると、あたしたちの門出を祝福するような、雲ひとつない青空が広がっていた。
春の陽射しはきらきらと輝いて、寝起きの目にはあまりにも眩しかった。
あたしは、春が嫌いだ。
何かが変わると期待してしまうから。
あたしは、知っている。
今日という日は、過去を積み重ねた上に成り立っていることを。
あたしは、信じない。
たった一日で変わってしまう程度のものなんて。
あたしは、信じている。
これまで彼と共に積み上げてきた時間と、そして、これから先も続いていくこの日々を。
あたしは、好きだ。
あたしに、世界を見せてくれた彼のことを。
あたしは、愛している。
共に刻んだこの日々と、歳月を。
これから、あたしたちの話をしようと思う。
あたしたちのこれまでのことを、この《日記》に記していこうと思う。
彼のために――そして、あたしのために。
これまでの足跡をここに綴る。
強くありたいと願い、想い続けてきた、あたしたちのこれまでのことを、ここに。
忘れないように――決して、忘れるはずはないけれど。
刻み込むように――もはや、刻む場所などないくらい、深く深く刻まれているけれど。
抱きしめるように――抱きしめすぎて、壊れてしまいそうだから。
* * *
転勤族だったパパの影響で、小学三年生にして五回ほど転校を経験していた。
人見知りの性格とあって友達など出来るはずもなく、休み時間は教室の隅で読書をしているような子供だった。
窓から校庭を眺める。
青空の下で、校庭を駆け回る同級生をうらやましく思いながら、しかし、どうせ直ぐにこの学校からいなくなるあたしが輪の中に入り込んでも迷惑を掛けるだけだと思った。
人と関わることや友達を作らない言い訳をパパの転勤のせいにして、自分を正当化した。
それがまた、人見知りの性格に輪をかけた。
だから、あたしにとって学校生活とは、灰色の毎日だった。
そんなときに出会ったのが、彼――づっくんだった。
大手金融機関に勤めていた父が唐突に故郷の市役所に転職した。
「もう転校することはないからね」
と笑いながら言うパパは、あたしの自慢。少し甘やかされすぎている気もすれけど、そこも含めて大好きだ。
しかし、転校がなくなるという事は、友達を作る努力――つまりは、人見知りを克服しなければならないということでもある。
はっ! もしかして、パパの本当の狙いはそれ……?
引越し初日。近所の人たちに家族三人で挨拶に回った。
「娘の凪です。ほら、挨拶して」
「……はじめまして……宿連寺凪です……」
両親の影に隠れて、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声だった。
幼かったこと、そして、少しばかり容姿が可愛かった事もあり、みんな許してくれた。
何軒か回って、最後の家。
随分と大きなお家だった。高い塀に囲まれて、お城みたいだなあ、なんて事を思った。
「ここのお家はね、パパとママのお友達なんだよ」
パパがそう言った。
両親の友達なら、あたしも友達になれるかな。
パパが慣れた手つきで、インターホンを押すと、中から穏やかな笑顔を浮かべた夫婦が出てきた。
「今日、こっちに引っ越してきたよ」
「久しぶりだな! ちょっと老けたんじゃないか?」
「みんな変わらないねっ」
「また昔みたいに楽しくなりそうね」
笑い合う四人。
私に見せる姿とは違った両親の一面を覗き見た気がして新鮮だった。
そんな四人を側から眺めていると、夫婦があたしに気がつく。
「もしかして凪ちゃん……?」
「大きくなって、美人さんだねえ……こんにちは」
目尻に皺を寄せて、あたしの低い視線に合わせるように屈んでくれる。
「……こ、こんにちは……宿連寺凪です」
「いい子、いい子」
その女性はあたしの頭を撫でてくれた。
「ちょっと人見知りでね……」
「私たちのこと、もう忘れちゃったよね」
「転校したばかりで、友達がいないのも不安だろう。ちょっと待っていてね……おーい、続! こっちへ来なさい」
そう呼びかけると、ドドドっと家の中を走る物音。足音が近づいてくる。
腕白な男の子である事が窺える。
女の子の友達さえいないのに、男の子なんて――と一気に緊張の波が押し寄せてきた。
「なーにー? お客さん? こんにち……わ……?」
ヤンチャそうな声とともに、フローリングをドリフトのように横滑りしながら現れた少年。
それこそが幼き日の彼――づっくん、だった。
目と目が合う。
吸い込まれそうな瞳だった。
夜空のように黒いのに、それでいて青空が広がっているような不思議な瞳だった。
もっと見たい――見ていたいと思った。
二人の間に流れた一瞬で、けれども永遠のような時間。
たぶん、一目惚れだったのだと思う。
幼いあたしが、その感情に名前がついていることを知らなかっただけで。
お互いに黙り、二人だけの世界に入り込んでいた。
「凪、挨拶だ」
パパに促されるまで、あたしたちは、見つめ合っていた。
一歩、前に出る。
同様に、づっくんも、一歩こちら側へ。
吸い寄せられる瞳のせいで、言葉が出なかった。見つめ合うように、お互いの動きだけが止まった。
「どうした……?」
づっくんのパパが怪訝な顔をした。
「緑ヶ丘続です……き、君は……?」
「宿連寺凪ですっ。よ、よろしくねっ」
努めて明るく、精一杯の笑顔を――。
づっくんは、驚いたように呟いた。
「音符……? 花かな……?」
「へっ……?」
「いや、君のその喋り方、笑い方が……何と言うか、ごめん、上手く言えないや」
照れ臭そうに、言葉を選ぶ彼。
それが悪い意味ではなく、いい意味で言ってくれた事は、充分に伝わった。
それならば、もう一度。
同じ音楽と、花束を――……。
「あ、ありがとうっ。よ、よかったら、お友達になってくださいっ」
不思議だった。
人見知りのあたしも、なぜか彼とだけは、普通に会話をすることができた。
もちろん、緊張はするけれど、他の人に対するそれとは明らかに違った。
「こ、こちらこそ……! いきなりだけど、そこに公園があるんだ。よかったら一緒に行かない……?」
恐る恐る聞く彼が可愛くて。あたしは、両親の顔を見る。
「行ってらっしゃい。暗くなる前に、戻ってくるんだよ」
「続、女の子に怪我させるような真似はするなよ」
「だいじょうぶ! 何があっても、僕が守るから!」
「「まあ……!」」
ママ二人が乙女のような声を出す。
この胸の高鳴りは、なんだろう。
鼓動が早くなる。心が温かい。
慣れない感情の扱いに困って呆けていると、彼が私の手を引いてくれた。
「いこうっ!」
白い歯を見せ、照れたように言う彼。
あたしも笑顔で「うんっ!」と頷いた。
握られた手――その手の暖かさに、また一段、胸の鼓動が高くなった。
男の子の手を握るのなんて初めてだったから。
季節は春。駆け出したあたしたちの頭上に、桜吹雪が舞っていた。
遠く大きな雲が西へ、東へ、たゆたうように流れていく。
このまま、あの雲を追い掛けて、どこまでも、どこまでも、走って行ける気がした。
季節外れに暑い春の日で、アスファルトには、陽炎が揺れていた。
「あついね」
Tシャツの襟元をパタパタと仰ぎながら彼は言う。
「そうだねっ……冷たいものが食べたいなっ、ガリガリ君とかっ!」
彼は思案顔をする。
別に深く考えた言葉ではなかった。
暑いから冷たいものを、といっただけ。
夜だから眠いというのと、殆ど大差のない言葉だった。
けれど彼は、そんな些細な願いを叶えてくれた。
「そしたら、食べにいこうっ! アイス!」
連れて行ってくれたのは、行きつけだという――どこにでもある年季の入った、少しだけ寂れた駄菓子屋さん。お客さんは、あたしたちだけだった。
「でも、お金、持ってないよ」
「大丈夫! じゃーん!」
ズボンのポケットから出てきたのは、銀色に輝く百円玉。
小学三年生のあたしたちにとっては大金だった。
「わあ! すごいっ!」
「だろー? これだけあれば二人で一本ずつ食べられる!」
「えっ! あたしの分もいいの……?」
「あ、当たり前だろ。僕にまかせて」
誇らしそうに胸を張る彼が頼もしかった。駄菓子屋さんの冷蔵ケースを覗き込む。
「ガリガリ君……六十円もするんだねっ……」
「足りない……」
あまりにも残念そうな彼が可愛くて、クスッと笑う。
「あははっ! 世知辛いね」
「せ、せちがらい……?」
「人生は辛いことばかり……みたいな意味かな?」
「難しい言葉を知っているんだね」
「ううん、違うの。本を読むのが好きだから……そのせいかも」
「じゃあ……じゃあ、今度、一番好きな本を貸してよっ! 僕も読んでみたい」
「本当に? 感想も聞かせてくれる……?」
「もちろんっ! むしろそれが目的……かな……」
嬉しかった。
これまであたしが読んでいる本に興味を持ってくれる人なんていなかったし、感想なんて自分の心に留めておくものだと思っていたから。
「じゃあ、明日、持っていくねっ」
とびきりの笑顔で私は答える。
結局、パピコならぴったり百円で、「二つに分けられるよね」ということになった。
隣接する名前すらない小さな公園。
ブランコに揺られ、パピコを食べながら他愛のない話をした。
学校の話、勉強の話、家族の話、好きな食べ物の話、好きな本の話、好きなアニメの話。
出会ったばかりのあたしたちには、知りたいことがたくさんあった。夢中になって、お互いを知ろうとした。
それこそ日が暮れるまで。
「そういえば、名前……なんて呼べばいいかな……」
誰かと親しくなった経験がなかったから、そんな事、考えもしなかった。
でも、クラスメイト達がそうしているのを見て、下の名前で呼ばれる事を少しうらやましいと思っていたのも事実だ。
「凪、でいいよっ。パパとママ以外に、そう呼ぶ人はいないから……特別」
「特別……? いいの……?」
「うん、そう呼んで欲しいっ! あたしは何て呼んだらいいかなっ?」
「それなら、僕の事も下の名前で呼んでほしい。つづく――は、どうかな?」
「つづく……つづく、くん。つづくくん……づっくん。づっくん!」
「づっくん?」
「ニックネームみたいっ。どうかなっ?」
「凪がよかったら、それでいいよ。そう呼ぶのも凪だけだから……特別だ」
ただの呼び名。
されど、彼にとっての特別になれた事が嬉しかった。
「あははっ……なんか、二人だけの秘密みたいで、楽しいねっ?」
二人だけの公園に、笑い声がこだまする。
やがて帰宅を促す「夕焼け小焼け」のチャイムが鳴り響く。
この街ではパンザマストと呼ばれているそれは、あたしたちに別れの時間を告げる悪魔の囁きだった。
この時間が楽しくて、永遠に続いて欲しくて。
話題が途絶えたら、この時間が終わってしまいそうだから、途切れないように会話を続けた。
今となっては思い出せないくらいに他愛もない会話だった。
結局、両親が二人を迎えにくるまで、二人のおしゃべりは続いた。
別れ際に「また明日ね」と学校もないのに約束をした。
この日、確かに、私の世界は広がった。
世界が色づいた。
桜が舞う春の真ん中――本当の意味で、あたしの人生が始まった日だった。
* * *
これが、あたしと彼の出会い。
きっと、最初から決まっていたのだと思う。
出会うことも、その後のことも。
なぜなら、あたしたちは、運命の二人――なのだから。
――四月七日
春という、何かが終わり、そして、何かが始まる季節に思いを馳せながら。
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