《六話:――これは、契約……だから――》
夕食の支度をしていたら、瞬く間に待ち合わせの時間になった。
遅刻でもしようものなら、間違いなく抹殺されると思うので、少し早めに家を出る。
本日二度目の大外刈りはさすがに勘弁願いたいところだ。
春の夜はまだまだ寒く、ブレザーを羽織ってはみたものの、幾分心許ない気もするが、少し歩けば次第に暖まるだろう。
十分ばかり歩いたところに、その場所はある。
桜の名所である清水公園。
先週までは、この時間でも夜桜を楽しむ人たちで溢れかえっていたものだが、一週間時期がずれただけで閑散としている。
屋台など見る影もなく、ブルーシートを広げて文字通り「花より団子」になっている騒々しい人達もいない。
近隣住民としては、花見シーズンの渋滞には辟易するものだが、しかし、いざこうして閑散とした姿を見るとそれはそれで切ないものがある。
右手に仁王門を、左手にポニー牧場を眺めながら、数年前に整備されたばかりの遊歩道を行く。
寂れた田舎であるこの街も、少しずつ表情を変え始めていた。
この街でさえも変わっていくように、僕たちにもいつか変化の時が訪れるのだろうか。
その時になって、変わってしまう自分たちに恐れることなく向き合うことは、果たして出来るだろうか。
しばらく進むと遊歩道のアスファルトが途切れ、砂利道へと変わる。
もっとも昼間の時間帯は散歩コースとなっているため人も多く、普通に歩く分には問題ない。
けれど、この時間になると話は違う。
空を覆い隠すように木々が覆っており、月明かりは僅かに届かない。ここら一帯の小学生に心霊ポットと認定されるくらいには、暗闇が広がっている。
霊的なものはまるで信じていないけれど、念のためにスマホのライトを点灯する。
転倒しないために。
僕の息遣いと砂を擦る乾いた音が響く。
しばらく進むと少し拓けた月明かりの差し込んでいる場所があり、そこが第一公園広場だ。
一番手近なベンチに腰を掛けて、彼女の到着を待つ。
空を見上げると、半分の月が浮かんでいた。
普段は気に留めることも滅多にないけれど、月は僕たちが思っている以上に明るいらしい。
当たり前にそこにあるものだから、つい、見落としてしまうけれど。
果たして僕たちは、一体、どれほどのことを疎かにして、見落として生きているのだろう。
ぼんやり月を眺めていると、遠くから物音が聞こえた。
よく聞けば、ザクザクと、足音だった。
豊四季だろうか……?
おぼろげに見えるその影は、ライトさえ灯さずに、ただ真っ直ぐにこちらへ向かって歩みを進めている。
その足取りは、迷いの気配など欠片として存在していなかった。
最初から決まっていたように。
進むべき道のりはこれしかないのだと言わんばかりだった。
「待たせたかしら」
「ん、いや」
現れた彼女は、何故だか勝ち誇った顔をしてこう言った。
「それとも、美少女とのキスが待ち遠しくて、早く来てしまった?」
「よくもそんなにペラペラと出てくるものだな。見上げたものだよ」
「昼間は地面に平伏して私を見上げていたものね」
「上手いこと言ったみたいな顔をするな。面白くないぞ」
「戯言よ」
「ああ、戯言だな……」
少しばかりの間。
「緑ヶ丘続。本当に消えてしまうことを証明する。だから、隣、失礼する」
言いながら同じベンチに腰掛けた豊四季からは、シャンプーの甘い香りがふわり、と香る。
暗くて分からなかったが、風呂上がりなのか、よく見ると髪が少しだけ湿っていた。
無地色の少しダボっとした黒いパーカーにショートパンツというラフな格好が似合っていた。
着崩すことをしない正統派の制服姿も似合っていたけれど、生活感のあるこの格好も中々悪くない。
さらに、個人的にポイントが高いのは、生足にショートパンツではなく、黒いタイツを合わせているところだ。
黒タイツ至上主義者としてはたまらない。
理想としては三十から五十デニールくらいだと尚よしだが、コイツはそこもしっかり抑えている。
満点だ。僕の好みを分かっていやがる。
黒タイツの向こう側を想像し、思いを馳せていた。見えないからこそ、掻き立てられる想像力がある。
読書家が行間を読むようなものだ。
「失敗したわ」
「……どうした?」
「足の指先を見せたいのに、タイツを履いてきてしまった」
「じゃあ脱げば?」
強烈な肘打ちを喰らう。
「緑ヶ丘続、デリカシーの欠片もない男」
「うう……大丈夫だよ……僕は凪にしか興味がないから」
「それはそれで腹立たしいけれど……でも仕方ない。絶対に振り向かないで」
「それは、フリ? 振り向かないで、だけに」
もう一発。
「殴りたくなった」
「…………」
仕切り直して、前を向く。
見てはいけない見てはいけない見てはいけない。
……背後でベルトを外す金属音。そして、シュルシュルと衣擦れの音。
ほーん。
自然と鼻の下が伸びた。
五感を研ぎ澄ませる。
うん、これは中々すごい状況だ。
後ろで美女が生着替えをしている。年頃の男子には拷問に近い。考えるな考えるな考えるな……僕には凪がいる凪がいる凪がいる……。
マインドフルネスさながら、意識を凪に集中し、雑念を振り払う。
しかし、そこでバランスを崩したらしい豊四季が「お」と勢いよく僕の肩を掴んだ。
必死に意識を外に追いやっていた僕は驚いて振り向いてしまう。
視界の端にピンク色の何かが見えた気が、しないでもない。
……うむ、悪くない。
「……きゃっ! み、緑ヶ丘続! あれほど振り向くなと言ったのに!」
背後から、ビンタを喰らう。
「いった……! お前が急に肩を掴むから……」
「うるさい。立ったままタイツを脱ぐのは大変なのよ。足元は砂利でバランスが取りにくいの」
「……分かったよ、肩を貸してやるから……」
「だ、誰があなたの肩など……」
それ何デレ?
まあ、「デレ」の瞬間を未だに見ていないが。
何とか着替えを終え、生足スタイルにフォルムチェンジした豊四季はもう一度、僕の隣に座る。
「緑ヶ丘続、正直に言って。見たでしょ?」
「ん……? いや……?」
すっとぼけてみる。
正直だけが正しい訳ではないのだ。時として、嘘は人に優しい。
「怒らないから」
「本当に?」
「ええ、本当」
「ピンク」
「っ……! その記憶、抹消させてもらう」
顔面に衝撃が襲ったのも束の間、視界が遠くなっていく…………。
おかしいな。ものの数分前までの記憶が消失している。
まるで、見てはならないものを目にしてしまって記憶を消されてしまったかのようだ。
豊四季は、手に付着した砂を払いながら、
「これだから童貞は」
と悪態をついている。
「おいやめろ」
「まあ、そんなことはどうでもいいわ」
そんなこと、ねえ……。
本当に言葉には気を付けて欲しいところだ。年頃の男子にとっては、非常にセンシティブな話題なのだから。
「これで、信じるでしょう?」
そんな雑念を他所に、唐突な踵落としが僕の太ももに降り注ぐ。
予想外の攻撃に僕は、悶絶する。
「いったっっっっ! 何すんだおま…………え………?」
しかし、僕の言葉は途切れる。太ももに乗せられた足――。
その指先を見ると、本当に消えていたのだった。
文字通り、足の指先が――消えていた。
正確には「薄れる」が適した表現だろうか。「透明」になっているとも言える。
「…………なんだ、これ……」
「これで分かったしょう? 本当に消えてしまうの」
この目で見たものが信じられなかった。
大切なものは目に見えないとはいうけれど。
これは、目に見えないのではなく、もはや、そこに存在していない。
「緑ヶ丘続、消えているとはいえ……凝視されるとさすがに恥ずかしいのだけれど」
「悪い…………その、触っても大丈夫か?」
「ぶん殴ってやりたいところだけど、それが私を信じることに繋がるのなら……なんでもするから――……」
懇願するように囁かれた言葉。
表情はあまりにも真剣で悲痛だった。
僕は無言で頷くと、消えてしまった足の指先に触れよう試みる。
しかし、いくら触れようとしても、空を掠めるばかりだった。消えていない部分には触れる事が出来るが、消えてしまった部分は触ることができない。
信じられないが、これが現実で真実だった。
理解が追い付かない。彼女の足を撫でる。
消えていない場所と、消えてなくなってしまった場所とを往来する。
「んっ……ちょっと……あんまり……っ」
「どうした?」
「ど、どうしたじゃない……。くすぐったい……」
「…………」
おうふ。これはいいな。
合法的に生足を堪能できるほか、普段強気な豊四季がこそばゆさに身悶えている。
征服している感というか支配している感が癖になる。
そういう趣味を持つ人間の気持ちが、本当に少しだけ理解できる気がした。
「触られている感触はあるのか?」
真面目な顔をしながら足を撫で回す。
別に触ったからと言って分かる事など何もない。
「ええ……っ。みっ、見えないだけでっ、触れられている感覚っん……はある。はうっっ……もちろんっ……、温もりも伝わる……っ」
こ、これは……。出来ればもう少しだけ……と言いたい所だが、さすがに悪戯が過ぎると思い、この辺でやめておくこととした。
「そうか……分かった。ありがとう」
優しく足を地面に戻してあげる。
「足の指先を起点に、時間の経過とともに全身に広がっていく……みたいなイメージか」
「そんなところ。もう少し待てば、手の指先も消え始めるはず」
「正直、信じられない。だから、もう少し……」
やっぱり、もう少しだけ……その柔らかな生足を堪能させてほしい。
「緑ヶ丘続、まだ触り足りない? 最後の方は下心が丸出しだったけれど」
お見通しだった。
「……。とにかく、消えるという意味は分かった……それで、この現象を食い止めるために、僕とキスをする必要があると」
「そういうこと」
そこで疑問が浮かぶ。
「それは、絶対に僕でなければならないのか? 例えば違う人だったりというのは」
「違う世界線で何度も試したわ……それこそ全校生徒、そして先生までも……」
「…………」
「それでもダメだった。何故キスなのか、何故あなたなのか。何一つ分からない」
分かれば苦労はしない。
そう言って、彼女は立ち上がる。
月明かりに照らされたその姿が妙に儚くて、言葉に詰まる。
体が薄れていくのと同時に、存在そのものが喪失に向かっているみたいだった。
僕をまっすぐに見つめる瞳は、まるで秋空のような切なさを帯びている。
夜空に浮かぶ半分に欠けた月から放たれれる光が、僕たちを優しく照らしていた。
「あなたが凪を好きだというのは理解の上。悪いと思っている。けれど……、けれど。私には、あなたしか頼ることができない。だから、お願い」
――お願い。私に、明日を見せて。
どうして、そんなに寂しそうな顔をする?
どうして、そんなに悲しそうな顔をする?
もっと強引に、そして圧倒的に僕を服従させてしまえばいいのに。その方が簡単だろう。
それができるだけの交渉材料を有しているはずだ。こんなにくどい方法が、果たして必要だろうか。
彼女が、僕に対して何かを願う意味が、本当にあるのだろうか。
――お願い……、私に……八月の空を見せて……
僕は、誰かの人生を背負うことができるほどの人間なのだろうか。
「分かった」
呟いて、一歩、彼女に歩み寄る。
同じように、一歩こちら側へ踏み出した豊四季。
顔と顔が近づく。
二人の息遣いが、わずかに響く。
シャンプーの香りが鮮明に鼻孔を掠めた。
それは、僕の頭を溶かしてしまうには充分で、胸の鼓動は加速し続けている。
この胸の音が、豊四季に聞こえてしまうのではないか……。
一瞬だけ見つめ合い、どちらからともなく、そっと目を閉じる。
不思議だった。
目を閉じても、相手の唇がどこにあるのか、分かるのだから。
そして、優しく触れ合った唇。
一瞬のことだった。
僕にとって初めてのキスは、まるで花火のようだった。
刹那のうちに瞬いては散っていく。
夏の夜に咲く花。
それは、もう一度――いいや、何度でも、欲しくなってしまうほどに甘美なものだった。
漏らした吐息に呼吸が乱れる。
決して深い口づけだった訳ではないのに、息が苦しい。
豊四季波という存在に飲み込まれてしまいそうだ。
それでも構わない。むしろ、叶うならば――……
もう一度。
そんな言葉が、どこからか漏れ出しそうになるのを、必死に堪える。
力強く拳を握りしめて、足を踏ん張りながら。
豊四季の瞳に視線を戻すと、僅かに涙が浮かび、肩が震えていた。
足下を見る。先程まで消失していた足の指先は元通りになっていた。
どうやら消失は回避されたらしい。
しかし、なぜだろう?
彼女が悲しむ姿を見るのが、どうしようもなく耐え難かった。
その涙を拭いたいと、震える肩を抱きしめたいと、そう思った。
出来るはずもないのに。
この時に彼女の瞳に浮かんだ涙の理由を僕が知るのは――もっと、ずっと後のことだ。
「これは、契約……だから」
掠れた声で、何かを押し殺すように豊四季は言う。
「ああ……契約……」
そう、これは契約。《約束》ではなく、あくまでも『契約』。
それが本心か、言い訳か。
そんな事を考えるには、幾分、胸が高鳴りすぎていた。
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