《五話:人は、いつだって何かかを持ちたがる》

 ようやく訪れた二人の時間だった。

 隣を歩く凪を横目に捉える。

 紺色のブレザーから覗く白いワイシャツと赤いリボン。取り立てて珍しいデザインの制服ではないけれど、だからこそ、可憐さが際立った。

 「何を」よりも「誰が」の方が遥かに大切である。


 ラーメンを食べてから結びっぱなしになっている後ろ髪。ポニーテイルが文字通り馬の尻尾の如く歩幅に合わせて小さく踊る。楽しそうだった。うなじに浮かぶ産毛が妙に生々しい。


 少しずつ大人になっていく凪。

 僕が高校生になったように、君も高校生になったのだよなと感慨が押し寄せる。


 時の流れを実感し、立ち竦みそうになる。

 月日は着実に前へ、未来へ向かって進んでいた。


 しばらく歩いていると、自転車に乗った小学生が路地から飛び出してきた。

「きゃっ」

「……!」

 咄嗟に庇うようにして、凪の華奢な身体を引き寄せる。

 自転車は急ブレーキを掛けたものの、少しだけ間に合わず、僕の足にぶつかった。

「ご、ごめんなさい!」

 勢いよく謝る小学生。

 大してスピードも出ていなかったことから、ほとんど無傷だった。

 それよりも心配なのは凪の方だった。

「凪、大丈夫か?」


「うん……大丈夫だよっ。づっくんが守ってくれたからっ」


 僕を見上げる瞳にオレンジ色が反射する。

 心なしか頬が赤らんでいるように見えるが、それは夕陽の仕業だろうか。

 いずれにしても、その眩さを僕は直視することが出来ない。

 強すぎる光にあてられて、僕自身が壊れてしまいそうだから。


 身体を引き寄せたことで密着した凪から香る甘い匂いが、頭を重たくさせる。

 鼓動は高鳴り、凪に聞こえてしまいそうだ。

 手を離した途端に散ってしまいそうなほど、凪の身体は柔らかく、軽かった。


 僕が守り続けなければ――。


 そんな執念にも近い激情。

 執着にも似た決意が滲む。

 凪に対する、あまねく感情が一挙に去来した。

 情報量の多さに、僕は身動きが取れなくなる。


「あ、あの……大丈夫ですか?」

 再び自転車の小学生から声が掛かるまで、ただただ見つめ合っていた僕たち。

「へっ? だ、だ、大丈夫だよっ」

「君も大丈夫か? 車だったら大変なことになっていたからな、気をつけるんだぞ」



 何度も頭を下げて帰路に着く小学生を見送る。

 アクシデントとは言え、先程まで僕の腕に収まっていた凪の感触が、存在が、未だ鮮明に残っている。


「波ちゃん、いい人そうだねっ」


 妙に恥ずかしくなった僕たちは、話題を変える。

 語尾に音符の付いたような凪の話し方は、出会ったあの頃から、一つとして変わらない。

 どんな時も変わらないその声に、僕は幾度も救われた。

「そうだな……。早速友達ができて、幸先の良いスタートだ」


 君が笑っていられるのなら……。

 何があってもその平穏は、僕が守るから。

 例え、その瞳に僕が映っていなくとも。


「それに、それにっ! づっくんとも同じクラスだしっ!」


 この笑顔が好きだ。眩しかった。

 僕の歩く道を照らす太陽そのものだ。

「改めてよろしくな、凪」

「うんっ。思い出、たくさん作ろうねっ」


 その笑顔が照らす未来――果たしてそこに、僕の姿は映っているのだろうか。

 この道は、共に歩いて行ける未来へ繋がっているのだろうか。

 いつまでも、君を守っていられるのだろうか。

 この恋が――結実するときは、来るのだろうか。

 途方もなく、取り留めのない思考が、頭の中を渦巻いていた。

 

「どうしたの……? づっくん?」

「ああ、悪い。ぼーっとしていた……」

 気がつけば、凪の自宅は目前だった。

 折角の二人の時間だったのに、勿体ないことをしてしまった。

 新生活初日という事もあって、存外、疲れていたのかもしれない。

「お疲れの様子だね、づっくん。明日も学校だけど、いきなり遅刻なんて駄目だよっ」

「凪こそ、寝坊助さんなんだから、早く寝るんだぞ」

「えへへ、春はいつまでも寝ていられるよっ」

 電車でも眠っていたのに、また欠伸をかいている。

 「疲れていない」とは言っても、新生活初日で知らず知らずのうちに負荷が掛かっているはずだ。

「じゃあな、凪。おやすみ。おじさん、おばさんはまだ帰ってないだろう? あした挨拶に行きますと伝えておいてくれ。制服姿も見せたい」

「うんっ! づっくんも気をつけて帰ってねっ」

「明日もいつもの時間に迎えに来るから」

「ありがとうっ、おやすみなさいっ」


 スカートの裾を翻し、玄関の中へと入っていった。二階にある凪の部屋に電気が灯ったことを確認してから、僕も帰路へ着く。

 カラスが鳴いて、これから、夜が訪れることを告げていた。


 二人で来た道を一人で引き返す。

 幾度も見た景色。何百回、何千回と歩いた道だ。

 多分、目を瞑っていても、自宅までたどり着くことができる。

 ものの数分前まで隣にいたはずの凪がいないという事実が、どうしようもなく僕を不安にさせた。

 心にぽっかりと穴が空いたような寂しさを感じる。


 明日の朝になったら再び会えるというのに。

 いつになってもこの得体の知れない不安にだけは慣れることができない。


 暮れる空に、移ろう時間を思う。

 何かを始めるためには、何かを終わらせる必要があるのだろう。

 月を迎えるために陽が沈むように、太陽を迎えるために月が沈むように。

 何かが始まり、何かが終わる――春、という季節のように。


 人は、いつだって何かを持ちたがる。

 それは時に、ブランド物の鞄や高級外車――。

 時に愛する人の心、かもしれない。

 何かを所有することで、心の隙間を埋めようとする。埋められる気がする。


 しかし、きっと、そんな事はない。

 何かを所有するからこそ「失いたくない」という執着が生まれる。持つから怖いのだ。


 失うことは怖いことだから。


 確かにそこにあったはずのものが、砂のように手から零れ落ちる苦しみに、人は耐えることができない。

 さりとて、それは僕も同じ。

 やはり、失うことは怖い。


 それならば、いっその事、何も持たなければいい。

 ミニマリストではないけれど、荷物など背負わなければいい。

 そうしたら、どれだけ身軽に、自由に生きられるだろう。自由には代償が伴う。


 何も「背負わない」「持たない」、その代償は寂しさなのかもしれないが、でも、傷つくこともなくなる。


 だから僕は、何も持たないことを選んだのだ。

 失う悲しみを味わうくらいなら、持つことで得られる喜びなど必要ない。


 捨てることを、選んできたのだ。


 何かを選ぶこと、それはすなわち、何かを捨てることだから。


 だけど――君だけは、違う。

 特別だった。

 手放せなかったわけでも、手放さなかったわけでもない。

 守り続けると誓ったから。


 ――約束だから。


 君のことだけは、どんなことがあっても守るから。

 あの日、あの時、あの場所で……誓ったから。


 ――づっくん、約束だよっ!


 力強い声で、無邪気に、少女は言った。

 僕たちは、未来を誓い合った。


 誓いの意味も、約束の重みも知らなかった僕たちは、この瞬間を《永遠》という時間の中に閉じ込めようとしたのだった。

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