《二話(前編):こうして僕は、弱みを握られた》
――あなたとキスをしないと消えてしまうの
控えめに言って意味が分からない。
「ごめん。意味が分からない。消えてしまうというのは、その……誰かに脅されている、みたいな? 入学早々いじめにでも? そういうことなら相談に乗るよ」
「緑ヶ丘続、冗談は顔だけにして。そんな奴がいたらぶっ飛ばすに決まっているでしょう」
「でしょうね…………」
「本当に消えてしまうの、この世界から。厳密には、この世界線から」
「この世界線から、消える」
「体が消失する。そして、入学式の朝へタイムリープして、新しい世界線をやり直す。信じられないと思うけど」
なるほど、全く信じられない。
体が消失? 入学式の朝にタイムリープ?
馬鹿な。信じられない。非科学的にも程がある。
「君の言葉を信じるなら――今日という日、《四月七日》を何度も繰り返している……ということ?」
こくりと頷く顔が少しだけ寂しそうに見えた。
「何度――では済まない。それこそ何千、何万回……数えることすら、とうの昔に諦めた」
「…………」
「そのタイムリープを回避するための手段こそが、あなたとのキス。
一日一度、あなたとキスをする――それが果たされた場合、私は明日を迎えられる。
できなかった場合は、再び《四月七日》の朝へ戻されてしまう――単純にして明快」
「ありえない」
そう吐き捨てるには、あまりにも彼女は真剣だった。表情や話し方は、真に迫るものがある。とても嘘には見えない。
まあ……、つい先程、騙されたばかりの僕が信じるものなど高が知れているが。
それでも僕は、こう問いかけられずにはいられなかった。
「それ、なんてラノベ?」
異世界転生……ではないな、タイムリープものか?
何れにせよ、良くあるタイプの物語だ。
「緑ヶ丘続、それは当然の反応。これだけの説明で信じてもらえるとは思っていない」
からりと爽やかに笑う。勝ち誇った表情が意味不明だった。
「緑ヶ丘続、大丈夫。あなたが信じるのも時間の問題」
「随分な自信だな」
「何度も今日を繰り返している――それはつまり、これから起こる事を予期しているということ。この会話も予定調和。
あなたを誘導する事など容易い」
「…………」
「そして私は、あなたが信じざるを得ない材料を、従わざるを得ない材料を持っている」
「信じざるを得ない材料……? 従わざるを得ない材料……?」
「一つは、状況証拠。もうひとつは、実力行使」
「後者はもはや交渉材料ですらないだろ……パワープレイにも程がある」
「では、一つめから」
台本を読み上げるように訥々と進められていく会話は、正に予定調和だった。
彼女の背後にのぼる春の太陽が、きらりと不気味に煌めいた。
「なぜ、私が、あなたの名前を知っていたか」
「…………でも、名簿は張り出されるわけだから、その気になれば特定可能だ」
「緑ヶ丘続、絶対にそう言うと思った。確かにそう。私たちはクラスが同じ」
こんな中二病を煮詰めたようなやつと同じクラス……。
僕の高校生活に暗雲が立ち込める。
空はこれ程までに晴れ渡っているというのに。
しかし、絶望に歪む僕など気にも止めない様子で「こんなのはどうかしら」と続ける。
「緑ヶ丘続。あながた未来を約束した人の名前は――
思わず息を飲み、目を見開いた。
「……な、なぜ、それを……」
「言ったでしょう。何度も繰り返している、と」
信じられない。
ハッタリにしては、出来過ぎていた。
初対面の彼女に、そんな事が分かるはずがない。
更に彼女は、追い打ちを掛けるよう言う。
「今日は宿連寺凪とランチデートのお約束でしょう。柏駅前のサイゼリヤ」
今朝方、凪と交わした約束だった。第三者に口外した覚えはない。
「親切な私が教えてあげる。サイゼリヤは長蛇の列で入店できない。協議の結果ラーメンを食べに行くことになるから、今のうちにタラコソースシシリー風は諦めた方がいい」
不敵に笑って言った。
本当に……本当にタイムリープをしてきたというのか……?
「信じられない……」
「疑り深い。前の世界線のあなたはこのあたりで信じてくれたものだけれど」
「……」
「仕方がない。二つ目の『実力行使』を……大丈夫。別に暴力という意味ではない。この動画を見てくれたら、それで良い」
ブレザーからスマートフォンを取り出し、画面をこちらに向けながら差し出した。
顎をくい、としゃくり上げる。再生ボタンを押せという事らしい。
言われるがまま、僕は画面をタップする。
「緑ヶ丘続、これを宿連寺凪に見せられたくなければ、御託を並べず大人しく従うこと」
そのカメラに収められていたのは十五分前の僕。それを見た僕は、あっさりと、成す術もなく彼女に従うことになった。
「今日は凪とランチデートだ! 楽しみ過ぎる!」
入学初日とあって、簡単なガイダンスだけで下校である。
女子は更衣室の案内があるからと男子だけ先に解散の運びとなったため、凪の戻りを教室で待っている格好だ。
男子は既に全員が下校した模様。
……決して僕が、誰からも誘われず、独りぼっちになったわけではない。
まだ打ち解けて切っておらず、皆それぞれが一人で帰宅した……はずだ。
教室に独り佇む僕から漂う哀愁はきっと凄まじいかもしれないが、断じて違う、と信じたい。
途方に暮れた僕は、天井を見上げ「知らない教室だ」とぽつり呟いてみたものの、しかし、そんな事で時間が潰れるはずもない。
私立高校とあって冷暖房は完備されているし、配布されたタブレットも最新の端末だ。
教室がやけに明るく感じられるのは、黒板ではなくホワイトボードを用いているからだろうか。
差し込む春の陽射しが光の筋を作っていて、宙を舞う埃をきらきらと瞬かせた。
何はともあれ、最高の学習環境であることに相違はないが、未だ自分の教室という実感に乏しく、何とも落ち着かない。
ぐるりと教室を見渡す――すると、体操服が放置された机が一つだけあった。
「女子は体操服を置きに行ったのではなかったか?」
机に近寄る。そして「やっぱり」と僕は呟く。
几帳面に折り畳まれた体操服には「宿連寺」と小さく刺繍が入っていた。
教室に着いてから自分の席を探すよりも先に凪の座席を見つけた僕だから、そこが凪の机であることは確認するまでもなく分かっていた事だが。
凪のやつ、高校に入っても相変わらずどこか抜けているな。
「まあそこが、かわいい……というか、そこ『も』、かわいいんだよな」
そんな事を考えている場合ではなく、凪が困っていたら大変だから届けてあげなければならない……のだが、肝心の女子更衣室の場所が分からなかった。
例え女子更衣室を見つけたとして、ズカズカと入っていくわけにもいかない。
余りにも役立たずの僕だった。
申し訳ない。
ごめんな、凪。
二度とこのような体たらくを曝け出さぬよう、学校中の施設について事細かく把握しておくから。
次こそは、凪の力になれるように。
それにしても手持ち無沙汰だった。
終わりの見えない待ち時間ほど苦しいものはない。何か暇つぶしが出来るものがあれば……、とあたりを見渡した時、凪の体側服がすぐそこにあることを思い出した。
……ごくり。こんな機会は滅多にないぞ、と悪魔のささやきがどこからか訊こえた。
一度状況を確認、整理する。
・誰もいない教室。
・女子達が戻ってくる気配は、今のところ感じられない。
・女子高生の体操服が面前に――しかもそれは、僕の愛する凪のもの。
……ごくり。
これほどの誘惑に耐えられる男子高校生が、果たしているだろうか……いや、いるはずがない(反語)。
念のために、もう一度だけ周囲を見渡し、誰もいないことを再確認――そして、体操服を顔に近づけてみる。
すると甘やかに全てを包み込むような、一面に花畑が広がるような香りが鼻腔を掠める。さすがの僕も、これ以上は耐えられなかった。
体操服を大きく吸い込む。
女子高生の体操服に顔を埋めるパワープレイ。
これぞまさに僥倖――至福の瞬間だった。
それも、ただの女子高生ではない。愛する凪の体操服だ!(n回目)
これほどの幸せがあっていいものだろうか――いいや、いいはずがない(反語)。
耐えられない。全身で凪を感じる。
何ていい匂いなのだろう。とても同じ生物とは思えない。
『すうううう、はあああああ…すうううう、はあああああ……』
深呼吸。体操服から放たれる凪成分を吸収する。
文字通り、堪能と言って差し支えない。
しかし、いつまでも浸ってばかりはいられない。
もうすぐ女子たちが戻ってきてしまう。名残惜しいが、ここらでやめておく必要がありそうだ。
……名残惜しい。本当に名残惜しい。
自宅へ持ち帰り、ショーケースで保管したいところだった。
何なら煮詰めて出汁を取りたい。
感情が極まった僕は、気が付いたらその場に倒れ込んで咽び泣いていた。
悔しさ余って教室の地面を殴る。
幸せな時間とは、どうしてこんなにも早く過ぎ去ってしまうのだろうか。
現実はいつだって残酷だ。
嗚呼……と深いため息が漏れる。
…………いけない、変なテンションになってしまった。凪が絡むとどうにも頭がおかしくなる。頭の中を切り替える必要がありそうだった。
顔でも洗っておくか――。
そして、トイレに向かう途中で彼女に追い掛けられ――物語の冒頭へと繋がる。
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