《二話(後編):こうして僕は、弱みを握られた》
誰もいない教室で女子高生の体操服の匂いを嗅ぎながら恍惚の表情を浮かべる男子高校生--つまり僕だが--という狂気の動画は、さすがに効果バツグン。
確かにこれは、暴力以上の「実力行使」といえる。
あの常軌を逸した奇行が、まさかカメラに収められていたとは露程も知らない数分前までの僕は呑気な物だった。
あんなものが拡散されたら、凪に嫌われるどころの騒ぎではない。
普通に通報される。
高校生活が初日で終わりかねない。
完全に自業自得だが、何卒ご容赦願いたいところだ。
ということで、僕は彼女の要求を飲まざるを得ない状況になった。
「一応、言っておきたいのだけど、いい匂い……というのは絶対に勘違い」
聞き捨てならない事を言う。
「……その心は?」
「緑ヶ丘続、よく考えて欲しい。
今日は、入学初日だから体育の授業はまだ一度も行われていない。故に体操服は新品。
つまり、いい匂いなどするはずがない」
なるほど。確かに論理的だし、それは盲点だった。
「で、でも! すごく、いい匂いがしたぞ……?」
「緑ヶ丘続、真顔でそのワードは怖い」
怖いとか、そんなことはどうでもいい。彼女に嫌われたって構わない。僕にとっては、凪こそが全てなのだから。
「新品のプラスチックの臭い」
「嘘だろう? あの匂いが錯覚だったというのか?
僕自身が作り出した虚像なのか?
見えないものを見ようとする努力は、情報に溢れるこの現代社会を生きていく上で大切な事ではあるが、しかし、しかし、だなっ!」
「緑ヶ丘続、落ち着きなさい」
信じられない。受け入れ難い。
しかし、そこで一つの仮説が思い浮かぶ。
「ああああああああああああ!」
「…………緑ヶ丘続、いきなり大きな声を出さないで」
混乱した僕は、的外れな洞察力を発揮する。
「もしかしたら、凪の奴、新しい服を着る前に一度洗濯するタイプかもしれない」
「………………言葉を失うほどのアホさ」
凪の事になると、どうにも冷静ではいられないのだ。
「アホとはなんだ? これはとても重要なことだ。
将来、凪と生活を共にした際、小さな生活習慣の相違が原因で溝が深まってしまうかもしれない……小さな価値観の相違が、人間関係の破綻にまで波及することは往々にして有り得ることなんだ。同棲カップルの約五十パーセント、つまり二組に一組は、それが原因で別離を選択せざるを得なかったとの調査結果もある。君も相手がいるのなら、今のうちに擦り合わせておいた方がいい」
「緑ヶ丘続、ペラペラと騒がないで」
「ちなみに、君はどっち派? 気にしないで着ちゃう派? それとも洗濯する派?」
「そんな派閥はない」
言って蹴りが入ったものの、しかし、律儀に答えてくれた。
「まあ、どちらかといえば、洗わずにそのまま着てしまう」
「やっぱり着ちゃうかああああああ」
「緑ヶ丘続、本当に静かにして欲しい」
心底うんざりした様子だった。咳払いで仕切り直す彼女。
「んん……、これであなたが私に従わざるを得ないという事は理解できた?」
「はい、あんな動画を拡散されたら生きていけません…………」
本当に、人生終了です。
「大丈夫安心して。一日一度のキスさえ守ってくれたら、動画は拡散しないと誓う」
「……はい」
「不服そう。これはお互いにとってメリットのある話。私はタイムリープを回避する事が出来る。あなたは、こんな美人と毎日のようにキスが出来る上に、動画を拡散されずに済む……なにが不満なのか理解できない」
「消えるっていうのがどうにも……」
消える。
それが一体どういう意味なのか。
どんな状態を示したものなのか。
未だに釈然としない。
「証明しろということね。あなたの要求は至極当然よ。実際に、消えるところを見せたら納得してくれる?」
「それなら…………まあ」
「良いわ、見せましょう。ということで、私が消えるのは夜だから、それまでの時間は付き合って貰う」
「え、でもこのあと、僕は凪とデートの予定が……」
「動画」
「はい! よろこんで!」
大手居酒屋チェーンの店員さながら元気よく応じる。
せっかくの放課後デートが……。
まあ、まだ入学したばかりだ。
放課後デートくらい、この先、何度でも出来るだろう。
それにしも、この女子生徒の存在は不気味だ。
出会って間もない事もあるが、正直に言って全くもって信用ならない。
得体が知れないにも程がある。
あれだけの秘密を抱えられていると、落ち着いて会話に興じることすらできそうにない。
「やっぱり二人にしないか……?」
「凪が一人になってしまっても構わないのなら、私は別に」
それは駄目だ。凪を一人にする訳にはいかない。
しかし、そこで違和感を覚える。
「『凪』なんて、随分と親しげだな」
「違う世界線で、出会っているから」
「ああ、そういう設定だったね」
「その厨二病患者を見るような半笑いは実に腹立たしい。殺すわよ。社会的に」
「戯言です」
――季節は春、始まりの季節。
見渡す限り、空は青く晴れ渡っている。燦々と降り注ぐ陽射しが暖かい。
春風にたなびく彼女の黒い髪が、陽炎のように揺れていた。
すらっと長く伸びる腕を、僕に向かって差し出してくる。
どうやら、起き上がらせてくれるらしい。
……倒したのはお前だけどな、という指摘は野暮だろう。
その手を掴み返す。触れた手は、淡々とした口調とは不釣り合いなほど暖かい。
今なら言える。始まりの日に、こうして彼女と出会えたことは、紛れもなく――運命だったのだと。
全てはここから始まったのだと。
前に進むことを諦めて、立ち止まってしまった僕たちが、否応なく、新たな一歩を踏み出すことになった始まりの日だ。
彼女の手を借りて立ち上がる。
フェンスの向こう側に広がる街並み。この街が一望できた。
「いい眺めだな……」
「ここは夜景も綺麗よ。それはもう、最期の瞬間はここで迎えたいと思えるほどに」
意味深なことを言う。
どこか悲しげな彼女の瞳を横目に、もう一度、街を見渡してみる。
いたる所で咲き誇る桜の木々を、春の暖かな陽射しが優しく照らしていた。
美しい街並みだと思う。
世界は瑞々しい生の息吹に満ちていた。
――春。何かが終わり、そして、何かが始まる季節。
物語の始まりとしては、悪くない。
これが小説の冒頭であれば、途端に物語が動きだきそうな予感がする。
「私の名前は――豊四季波。
これまでの最長記録は、七月三十一日。
この世界線のあなたは……
私に、八月の空を見せてくれるかしら?」
希う瞳の色に、僕は吸い寄せられていく。
「今度こそ、八月の空を見たい。
今度こそ、見せて欲しい。
私に……八月の空を…………」
八月の空を見たいと言った彼女は、一度だけ晴れやかに笑い、屋上を後にした。
春風がふわり――瞳を掠めて、通り過ぎて行く。
僕は、その風が行き着く先に想いを馳せてみる。
どこまで辿り着けるのだろう。
どれだけ高く、どれほど疾く、どんなに遠くまで駆け抜けられるだろう。
果てのない旅だ。
余りの壮大さに、茫然と立ち尽くしてしまう。
しかし、それは一瞬のことだった。
はっとして辺りを見渡したが、しかし彼女の姿はもうなかった。
そこにはただ、暖かい春の陽射しが降り注いでいるだけ。
追い掛けるように、僕も走り出す。
その一歩には、途轍もなく大きな意味があるような気がした。
僕たちの物語――。
その始まりの鐘が、静かに鳴り響く。
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