第一章

《一話:私と、キスをしてください。》

 ――四月七日。


 入学式と聞いて、思い浮かべるもの。

 満開の桜。暖かい陽射し。過ぎ去る冬を名残り惜しむような少しだけ冷たい風。張り出されるクラス分け。ぎこちのない教室。真新しい制服と未だに馴染まないローファー。何かが始まる予感。穏やかな春のひととき。散りゆく桜が地面に落ちるまでの時間。


 新たな一歩を踏み出す人々を祝福する晴れやかな一日。

 そんな、輝かしい日になるはずだった。


 それなのに……。

 なぜだか僕は今、尋常ではない勢いで女子生徒に追い掛け回されている。


 いいや、「追い掛け回される」なんて表現ではとても不足している。

 漫画であれば『ゴゴゴ』とか『ドドド』などといった効果音が荒々しく当てられているはずだ。

 もはや猛追と言っていい。

 それはまるで、アフリカの大地でシマウマを捕食するライオンの構図に等しい。


 ――緑ヶ丘続みどりがおか つづく、待ちなさい。


「な……何なんだ?」

 全速力で逃げる僕と、そんな僕の名を呼びながら追い掛ける女子生徒。

「何だ?」

「どうした?」

と、廊下中から好奇の視線が集まってくる。


 ――緑ヶ丘続、止まりなさい


「やめろ! 名前を呼ぶな!」

 振り返りながら僕は言う。

 ひっそりと穏やかな高校生活を送るつもりだったはずなのに、これでは入学式早々、悪目立ちにも程がある。


 ――緑ヶ丘続、私とキスをしなさい


 何故だか僕は、キスをせがまれている。

 端的に言って、意味が分からない。

 企画もののアダルトビデオか? 出会って即合体……? 

 ふざけるなよ。


 逃げるという事に関して言えば、僕は一流なのだが、さすがに入学したばかりで校舎の作りが頭に入っていない。

 アウェイゲーム戦っているみたいなものだろう。

 

 僕はとにかく聴衆の注目を避けたい一心で人の居ない方へとひた走る。

 体力にはそれなりに自信がある。

 何故ならそれは、愛する人を守るために、強くなる必要があったからだ。

 階段を勢いよく、二段ずつ飛ばしながら駆け上がる。この圧倒的なまでのスピードには、さすがに女の子が追いつくのは無理だろう。


 ――緑ヶ丘続、いい加減に止まりなさい


「えっ……!」

 驚愕だった。突き放すどころか、むしろ距離を詰められていた。

 こうなれば、むしろ階段を駆け上がったのは失敗だったかもしれない。

 恐らくこの先は屋上……つまり、行き止まりだ……え? 息止まり? やかましいな。


 階段を登り切る。一か八か、重たい扉を押し開けてみると、鉄の扉は何とか開かれた。どうやら屋上は開放されているようだ(中学校の時は、閉鎖されていた)。


 一瞬だけ安堵したものの、追い詰められたことに変わりはない。屋上よりも先に道など存在しないのだ。

 いよいよ逃げ場はなくなってしまった。

 身を隠す場所もない。

 間髪を容れず屋上に姿を現した彼女は、言う。


 ――この世界線のあなたは、体力があるみたい


 この世界線……?

 一体、何のことだ……?

 そんなふうに逡巡している間にも、少しずつ、少しずつ距離が詰まる。

 後ずさる僕の背中に金網がめり込んだ。

 ボンレスハムのようだった。

「それでは、その唇を、私に寄越しなさい」

「それでは、の使い方、絶対に間違っているぞ……日本語は正しく使おうな……?」

「緑ヶ丘続。そんな細かいこと、どうでもいいでしょう」

 苦笑いする僕を一蹴し、不敵な笑みを浮かべている。


「私とキスをしなさい」


 どれほど強固な盾さえも貫いてしまうほど、芯のある声色だった。

 逃げることに必死でよく見ていなかったけれど、恐ろしく端正な顔立ちをしていた。

 太陽の存在を否定しているように感じられるほど白く透き通る肌。風にたなびく長い髪からは甘い香りが漂う。天使の輪が浮かび、手間隙の掛かったメンテナンスの一端が窺える。

 前髪の隙間から覗く瞳は大きく、その表面は、涙が浮かんでいると見紛うほどに艶っぽく輝いている。


 思わず見惚れてしまう自分がいた。


「緑ヶ丘続、そんなに見つめられると、照れてしまう…………てれてれ」

「……棒読みすぎる。演技にしても、もう少し感情を込めろ……」


 渇いた笑いを交えながら、迫りよる彼女。

 気がつけば、僕は両手両足が拘束されている。

 振り解こうと試みるも、物凄い力で跳ね返されてしまった。

 恋人繋ぎのように手を絡めとられ、身動きが取れない。

 冗談だろう?

 僕だって、それなりに力はある方だというのに。

 このまま、僕の初めてのキスがこの得体の知れない女に奪われてしまうというのか……?


「抵抗など無意味」


 恐ろしく強い力だった。少しずつ近づく彼女の顔。甘い香りが鼻を掠める。

「あ、いい匂い!」

 なんてことを一瞬でも考えてしまった自分を殴りたい。

 邪な感情に現を抜かしたことも相まって、戦況は圧倒的な劣勢。

 主導権は彼女の手中にあった。

 こうなった僕に出来る抵抗は、もはやただひとつだけ。

 懇願することだ。

 謝って許してもらう。

 とりあえず謝って話を終わらせる。

 これは、社畜に必須なスキルであると誰かが言っていた。コミュニケーションをシャットウトする事で話を終わらせる有効な手段であると。


「勘弁してください……僕の初めてを奪わないで下さい……お願いします。僕には大切な大切な、未来を誓った――約束を交わした相手がいるんです」


 泣き言のような哀願が、屋上に物悲しく響いた。情けない事この上ないが、しかし、そうするほかなかった。

 瞳をぎゅっと閉じ、現実から……そして、彼女から目を逸らす。

 しかし、それを聞いた彼女の動きがぴたりと止まり、眉間に皺が寄った。


「なんて?」


「え?」


「今、なんて?」


「え……? 僕の初めてを奪わないで下さい、と……」

「そのあと」

「約束を交わした相手がいるんです……?」

 それを聞いた彼女は、

「はあ…………」

 と息を吐いた。


 それはそれは、深い溜息だった。

 この世界に存在する全ての幸せが零れ落ちてしまうのではないか思うほど、深いため息だった。

 落胆の色が美しい顔に浮かぶ。鮮やかなコントラストだった。


 しかし、それも束の間、今度は力むような力強い声で「はっ」と叫んだかと思えば、次の瞬間、僕はどうしてか宙を舞っていた。

 美しい大外刈りだった。

 僕が柔道の経験者でなければ、骨の一本や二本は折れていたに違いない。

 何とか受け身を取って、衝撃を和らげる。

「……っあぶねえな! 何すんだ!」

 投げ飛ばされた理由を考えながら、問うてみる。

「うるさい」

「…………は?」

「緑ヶ丘続、これくらいの事で喚かないで欲しい。これだから童貞は」

「べべべべつに、どどどど童貞じゃねえし……?」

 軽蔑するような視線が飛んでくる。

 先ほどまでの澄み渡った瞳は見る影もない。

 輝きなど欠片もなく、絶望のような深い黒色がそこに浮かんでいた。

 声のトーンも恐ろしく低い。

 ものの数秒前に


『純粋で無垢で、嘘も偽りも感じられない芯のある声色だった。』


 などと表現してしまった自分の見る目の無さが悲しい。


「はー……」

 投げ飛ばれ、地面に座り込んだまま彼女を見上げる。

「あの……、大丈夫……?」

「チッ」

 まさかの舌打ち。先ほどのため息があまりにも悲壮感に満ちていたせいで思わず慰めてしまったが、逆効果だったようだ。


 しかしここで僕は「ああ、でも、そうか」と、彼女の落胆に納得する。

 彼女は今、失恋の最中にあるのだ。失意のどん底と言って差し支えない。

 何故なら彼女は、どういうわけか僕を好いてくれて、懸命に想いを伝えてくれた。


 けれど、僕には既に大切な人が存在し、叶わぬ恋となったのだ。

 きっと感受性が豊かで、今は感情が昂っているだけなのかもしれない。

 だから僕は、精一杯の感謝を込めて伝える。


「…………君の想いを、踏み躙るつもりはないんだよ」


「緑ヶ丘続、勘違いしないで。私は別に、あなたのことが好きなわけではない」


 どうやら見当違いだったらしい。

「それじゃあ、どうして僕にキスを……?」

 益々意味が分からない。

 こうなると最早、思い当たる節は欲求不満ぐらいだろうか。。

「欲求ふま……ぐあっ」

「緑ヶ丘続、何か言った?」

 ローキックと共に鋭い眼光。怖すぎる。

「また一からの説明ね……実に面倒」

 『また一からの説明』……?

 何のことだ……?

「物凄く簡単に、そして、端的、明瞭に説明する」

「前置きが全くもって、簡潔明瞭ではないね」

 ギロリと刺すような視線が向けられる。

「どうぞ……続けて……」


「私は、あなたとキスをしないと消えてしまうの」


 そう言って真っ直ぐに僕を見る瞳に浮かぶもの――どこまても素っ気なく、寒さを感じるほどの凍える声。

 そこに、どれだけの意味と想いが込められていたのかを僕が知るのは、もっと、ずっと後のことだった。

彼女はもう一度言う。


「私と、キスをしてください」

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