第9話 役に立つ無駄
「…………直りそうにないわね」
合成学の授業中、誰かが転んで投げ出された鍋の中身が降りかかったため、それを落とすために実験棟の片隅にあるシャワールームを使っていた。
ぬるいシャワーを浴びながら、とめどなく響く水音で波立つ気持ちを無理やりに押し込めて、呑み下す。
制服は液が染み込んでいたからもう新調するしかない。
ひとまずの代用品はティアが置いてくれているみたいだから、ありがたくそれを使わせてもらおう。
髪についた分は……どういうわけか、率先して駆けつけたウィルが拭いてくれたからあまり被害はないし、液が掛かる寸前で魔力抵抗が間に合ったのが功を奏した。
でも――髪留めはダメそうだった。
銀細工に小さな青い魔晶石が嵌められたそれは酸の影響で表面がまばらに溶けて、僅かに黄緑色も移ってしまっていた。
あの髪留めは昔から使っていて、母親からもらい受けたもの……
というのも、私には母親から髪留めを貰った記憶がない。
しかし周りの人は私が母親から貰っていたことを知っていて、それを裏付ける風習がヘクスブルフの魔術師の間にはあった。
ヘクスブルフの魔術師は子の門出を祝い、護身用の魔術を組み込んだ魔晶石があしらわれたアクセサリーを送ることがある。
私の場合それが銀の髪飾りで、記憶はなくとも思い入れのある大切な物だっただけに、言葉を失うくらいの衝撃を受けてしまった。
「どうしたら、いいのかしら」
わからない。
修理に出そうにもそれらしい職人のことを私は知らないし、このままつけ続けるのもなんとなく違うと思ってしまう。
誰かに頼れたらいいのかもしれないけれど、こんな私に頼れる人なんて――
「……あなたも、どうして私を助けようとしたのよ」
あの教室で真っ先に声を上げ、駆け付けたのはウィルだった。
何事に対してもめんどくさそうにしていて、誰にも興味がないみたいな顔をしておきながら、誰よりも私を見ていた。
偶然目を向けただけかもしれない。
でも、名前を呼ぶには意思が必要。
それどころか濡らしたハンカチで髪を拭う時点で明白だ。
「…………政略結婚なのよ? 愛なんて必要ない。建前があれば十分――そう言ったのはあなたじゃない」
細い呟き。
もう十分に浴びたものは流せただろうと思いシャワーを止めると、嫌な静寂がまとわりついている気がしてため息を零す。
同居生活を始めて一週間も経っていないのにこの有様なんて、情けない。
私は独りでいるべき人間――孤独こそが居場所だと、何年も前に身をもって知ったはずでしょう?
用意していたタオルを体に巻き付けてシャワールームを後にし、脱衣所でティアが置いていった替えの制服に着替えようとして。
「…………ない。私の髪飾りが、なくなってる……?」
脱いだ服と一緒に置いていたはずの髪飾りが籠の中から姿をくらましていた。
■
「――今日は遅いな、リリーシュカ」
その日の授業が終わり、いつものように部屋で過ごしていた俺は、外が暗くなるような時間になってもリリーシュカが帰っていないことに気づく。
俺もリリーシュカも友人らしい友人がいないため、授業が終われば寄り道することなく寮に帰り、各々の時間を過ごすのがいつもの流れだ。
何かしらの用事が入って帰りが遅くなるのもあり得ない話ではない。
教師に実験の準備の手伝いを押し付けられたり、学園迷宮で動植物の素材を採集して換金することもあるだろう。
とくに後者は平民でありながら能力を示して入学を果たしている生徒に多く、貴重な金銭の入手手段にもなっている。
リリーシュカなら単身で学園迷宮に潜ってもさほどの危険はないだろう。
想定外のアクシデントや油断があれば別だが、この数日見ていた限りではそういうタイプでもないと思う。
そもそも寮には門限なんてものは設定されていないのだから、俺は特に気にせず自分の生活を優先すればいい。
そう、思っていたのだが。
部屋の呼鈴が鳴る。
これは基本的に寮の職員が入寮者を呼び出すときに使うものだ。
特に清掃や洗濯は頼んでいなかったはずだが、と思いながらも出てみると、寮の職員が恭しく礼をして、
「ウィル様。レーティア・ルチルローゼ様が面会を求めております。いかがいたしましょうか」
「……レーティアが俺に用? すぐ向かう。ロビーで待たせておいてくれ」
「かしこまりました」
俺のような半端な王子にも礼を尽くす職員が踵を返して戻っていき、俺は一応身なりを整えてからロビーへ向かった。
待合所のようになっている一角のソファに座っていたレーティアが俺に気づいた途端に勢いよく立ち上がり、不安げな表情で駆け寄ってくる。
「何があった?」
「実は……合成学の授業の後からリーシュのことを見かけてないの。同じ授業もあったはずなんだけど出席してなくて。何もなければそれでいいんだけど……寮には帰ってるんだよね?」
「……いや、リリーシュカはまだ帰ってないはずだ」
俺が告げると、レーティアは驚いたのかぱっちりと両瞼を開け、口元を隠すように手を当てた。
「俺が最後にリリーシュカを見たのは合成学だ。その後は知らない」
「私はシャワールームに替えの制服を置きに行ったとき、かな。まだシャワーを浴びている最中みたいだったから顔は直接合わせていないけど」
「行方をくらましたのはその後か。どう思う?」
「……何かしらのトラブルに巻き込まれたのが有力かな。リーシュは無断で授業を休む性格じゃない。誰かさんとは違ってね」
やんわりと問い詰めるかのような金色の瞳に俺は苦笑しか返せない。
「ウィルくんは心配じゃないの?」
「俺はリリーシュカの親じゃない。このくらいの時間に帰ってないからって探すのは過保護だと思うが」
「それはそうかもしれないけど……授業に出てなかったんだよ?」
「サボりたい日くらい誰にでもあるだろ」
「でも……っ」
しかし、それに応える意思を俺は持っていない。
「……なら、今日一日は様子を見る。明日になっても帰って来てなければ探す。それでいいか?」
「…………わかった」
「くれぐれも一人で学園迷宮を探そうとか考えるなよ」
「わかってるよ。わかってるけど……もしもリーシュがいなくなったのが私のせいだったらって考えると――」
「それはないから安心しろ。表では仲良くして、裏では嫌うなんて器用なことができるやつじゃない」
肩を軽く叩いて疑念を払拭しつつ「もし帰ってきたら連絡する」と伝えると、まだ心配そうな表情をしていたが辛うじて納得したらしい。
「……じゃあ、わたしは帰るね」
「送っていこう。外はもう暗いし、一人でリリーシュカを探しに行こうとしないとも限らないからな」
「少しくらい元婚約者を信じてくれてもいいんじゃない?」
「信じてるからこその妥当な評価だと思うが?」
本人は認めないだろうが、レーティアは相当なお人好しだ。
勝手に責任感を感じてリリーシュカを探しに出ないとも限らない。
陽が落ち月が昇り始める空は藍と橙が綺麗に重なっていた。
一定の暗さになると自動で点灯する魔力灯が照らす中を数分ほど歩くと、レーティアを含めた上級貴族たちの寮が見えてくる。
「ここまで来たら大丈夫だよ。送ってくれてありがとね、ウィルくん」
「気にするな。レーティアまでいなくなったら流石に困る」
「……そういうところ、昔から変わらないね」
ふふ、と微笑んでみせたレーティアは「また明日ね」と手を振るが、俺は「ああ」と返すに留めて寮に入っていくのを見送り、息をつく。
陽も落ちたことで気温も下がり、涼やかな風が頬を撫ぜる。
もうじき本格的に暗くなるし、腹も空く頃合いだ。
「…………手のかかる魔女だな」
呆れ混じりの呟きは、再び吹いた風に
もしもこのままリリーシュカが帰ってこなかったとして困るのは俺だ。
レーティアにはリリーシュカを探すのは明日からと言ったが――俺は気まぐれで夜の散歩がしたくなっただけ。
「まあ、いいさ。夜の散歩もたまには悪くない。あてもなく歩き回るのは無駄だが、ときにはその無駄も役に立つだろうさ」
―――
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