第9話(2)
『今すぐこい』という文面を見た佐藤は震え上がった。
彼には警視庁の上役に親族がおり、そして自分も順調に出世を重ねる、そういう野望もあった。そのために上司の靴を舐めるような真似もしてきた。
闇あれば光あり。それが佐藤の信条だ。
まともな生き方などつまらない。少しばかり危うさがあった方が人生は輝く。彼にとってギャンブルはそういうものであって、決して依存しているわけではないと周囲にも豪語していた。
仕事についても同じだ。真っ当なだけの仕事など存在しえない。佐藤にとって重要なのはあくまでポストであり、時には清濁併せ吞む気概が必要だと考えている。すなわち、半グレどもとは上手に付き合わねばならない。
だから、真比のような人間は目障りだった。大人しそうに見えて、着々と証拠を集め、半グレどもを追い詰めようとしている。連中が捕まれば、報復に佐藤の名前を出さないとも限らない。
真比を売ることに、ためらいは微塵もなかった。
これで自分の身は安泰だ、と佐藤は安堵していた。半グレにはご褒美に、真比の嫁の情報でも渡しておけばいい。
その矢先に、『今すぐこい』のメールである。
そのとき、初めて佐藤は自分が新たな弱みを握られていることを悟った。半グレどもへの借金とは比較にならないほど重い、同僚殺しの汚名だ。
あらゆる仕事を放り出し、取る物もとりあえず駆けつけると、工場の中で何やら争う音がする。
覗いてみれば、異形の物体が出入り口へと這ってきているところだった。佐藤は幼いころに観た特撮映画を思い出した。透明人間にペンキを掛けると、人の形がくっきりと浮かび上がる。こいつの場合は、細かな記号のようだが。
それは佐藤に向かって手を伸ばした。ぎくっとして身を引いたところで、スキンヘッドの男が殴打をかまし、それの身体はバラバラと崩れ去った。不思議なことに、それを覆っていた記号の欠片たちは、すっと見えなくなってしまった。
消える寸前、佐藤にはオレンジ色の『守』が見えた気がした。佐藤の知っている『守』という人名は、一つしかない。
——まさか、な。
佐藤はその考えを打ち消した。
スキンヘッドの男——佐藤も本名を知らない――は、こめかみから血を流しながら肩で息をしていた。
何があったんだ、と尋ねようとしたところで、
「何だあいつは、くそったれ」
スキンヘッドが先にそう言う。明らかに頭に血が上っている。
そう問われても、佐藤だって何が何だか分かっていない。
何も言えずにいると、スキンヘッドは凶暴な目つきで佐藤をにらんだ。
「お前、どうしてここにいるんだ」
「いや、そのう、メールが……」
あんたが来いと言ったんじゃないか、と言える雰囲気では到底なかった。
「ああくそ、わけが分からん」
スキンヘッドは壁にバールを打ちつける。甲高い音が響いた。
佐藤もまったく事情を呑み込めていなかったが、一方で、十分すぎるほどに理解していた。
スキンヘッドの怒りは当分収まらないことを。
腹いせに、自分が無理難題を押しつけられるであろうことを。
もう二度と、自分は解放されないことを。
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