第9話(1)

 自分の肉体にはっきりとした質量を感じながら、私は通りを駆けた。何人かの通行人が足を止めてこちらを見ているようだったが、気にしてはいられない。

 工場へ再び入り込む。

 先ほどと同様、一人の(おそらく)半グレがいるだけだ。

 私はそいつに近づいた。

 相手もこちらの気配に気づいたらしい。振り返って私の姿を認めると、手近にあったバールらしきものを手に取った。

 おそらく、「何モンじゃワレェ」とか何とか吠えて威嚇しているのだろうが、私には届かない。私はあくまで肉体を取り戻しただけで、聴覚も視覚も以前のままだ。

 私は拳を握りしめた。


 ——こいつが、私の家族を狙っている。


 躊躇はなかった。

 相手のこめかみ辺りを殴りつける。なかなかの威力があったらしく、相手の身体が大きく傾いだ。

 普通なら、あれだけの力で殴ればこちらも骨折するだろう。しかし私の拳からはいくつかの文字がはがれただけで、痛みも何も感じない。

 むしろ、相手の頭からは、さながら流血のように文字が垂れていた。私の殴りつけた部位から、いくつかの『頭』という漢字がこぼれている。

 もう一発、と腕を振り上げたところで、相手が反撃に出た。バール(らしきもの)を私に向かって振り下ろしたのだ。

 とっさに私は左腕で頭をかばう。

 私の左手首から上が吹っ飛んだ。ブロック玩具のように、細かな文字が散る。

 何も問題はない。やはり痛みは感じないし、右腕は残っている。それに、散った文字たちが私の方へ少しずつ戻って来ていた。磁石のそばにこぼれた砂鉄の如く。

 私は再び半グレを殴りつける。相手の頬から、『頬』の字がいくらか舞った。

 そのとき、ぐわん、というひどいめまいが起こった。

 体勢を保てず、私はふらふらと膝をつく。

 再びバールで殴られたのだ。今度は腹部を。


 ——名前のある部位だ。


 半グレにも、その弱点ははっきりと認識されたらしい。

 再び、私の名前を殴打される。

『腹』と『胸』の文字が飛び、オレンジ色の光がむき出しになった。

 世界がぐるぐると回る。

 私は這うようにしてその場から逃げ出した。工場の出入り口へと向かう。

 一度だけ振り向くと、散らばった文字たちが列になって私の後を追って来ていた。半グレはこめかみの辺りを拭い、再びこちらへ向かってくる。

 何とか出入り口にたどり着いたところで、もう一人、何者かが駆けこんできた。

 その人物は胸ポケットに名刺でも入れていたらしい。私の目は、その名をしかと捉えた。


 ——佐藤。


 怒りがこみ上げてくる。私は這いつくばりながら、佐藤へ右腕を伸ばした。

 その瞬間、背後の半グレが打撃を加えたらしい。

 私は姿すら保てなくなり、身体を覆う文字たちが全て崩れ落ちた。

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