第5話

 ともかく、私は家を目指すことにした。

 考えてみれば、私は交通ルールに則って移動する必要などどこにもないのだ。

 さらに言えば、私を遮るものなど何もない。塀や建物をすり抜け、直線的に進めば、所要時間は半分以下だろう。

 何れの日か是帰年ならん。

 そう詩に表したのは杜甫だったか。

 私も自分の家にいつ帰り着けるか――帰り着いてもそこで何をどうしたらよいのか――分からない。

 工場のある通りには、二つほどの交差点を挟んで図書館がそびえている。

 私は足をそちらに向けた。

 文字だけを認識できる私の目に、どこよりも文字で溢れているその場所がどう映るのか、わずかばかり興味があったのだ。

 そして私が目にしたのは、想像を絶する光景だった。

 四階建ての味気ない立方体が鎮座し、その内部に細かな文字が渦巻いている。おそらく収まりきらないのだろう、文字の奔流が内側から吹き出しており、イワシの群れのように立ち上っている。

 透明な箱に閉じ込められた毛むくじゃらの生き物が、身をよじっている――私にはそんなふうに感じられた。

 辺りを見回してみれば、図書館ほどではないにしろ、様々な建物の中に文字が渦巻いている様子が確認できる。きっとそこに資料室でもあるのだろう。

 企業の事務所と思しき建物には、やはり数字が多い。そして、デスクやPCと思しき箱体から、細かな文字たちが凄まじいスピードで放たれている。それらは建物の天井を通過して、空へと吸い込まれていく。

 メール、あるいはSNSのメッセージたち。

 逆再生した雨のようだ。

 文字たちは一直線になって、空の奥深く、遥か彼方の衛星を目指し飛んでいく。

 周囲を見回してみる。

 ここには文字が多い。

 渦巻く文字のうねり、立ち上る電子メッセージ。空が暗いのは夜だからではない。無数の文字たちが次々と浮かんでいるのだ。

 私の元居た場所とは理を異にする世界。

 何れの日か是帰年ならん。

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