第3話

 身体の中心で自分の名前が踊っている。

 これは何の暗喩でもない。文字通り、身体の中心に名前があるのだ。

 

 輪郭線と文字だけになった世界を、私は途方に暮れて歩きまわった。どこへ行っても味気ない線と文字ばかりだ。見たい景色が見られないという状況は、少なからず私を苦しめた。

 自分の両手を持ち上げてしげしげと眺めてみる。手のひらを透かして電線のラインが見えた。

 その手を下ろしたとき、視界の下方を何かがよぎった。

 色彩を欠いたこの世界で、それはオレンジ色の光を放っている。

 身体を折り曲げるようにして覗き込むと、逆さになった「守」の文字が目に入った。

 さらに顎を引いてみる。


 ——真比守。


 私の名だ。どうやら私の中心には、名前が浮かんでいるらしい。心臓の辺りから腹部にかけて、煌々と輝く「真比守」。自分が記号そのものになってしまった気がした。

 手を伸ばしてみる。本来なら皮膚があり肉があるはずの表層をすり抜けて、私の手は「真比守」に触れた。ほんのりとした温かさを感じる。

 そのとき、慌てた様子の人影が、私の身体と名前を突き抜けてどこかへ走り去っていった。

 何もわからない。

 誰からも認識されず、私に残されたのは透けた身体と名前だけ。

 おかしくなりそうだった。



 人間というのは、狂った状況下に置かれたとき、普段の習慣や見知った場所に執着することで安寧を見出そうとするものらしい。


 ——家に戻ってみよう。


 混乱した頭で、私はそのアイディアにすがりついた。

 ただ、ここから家までには距離がある。徒歩三、四時間といったところだろうか。

 トラックと思しき輪郭線が私を通過したことを思い出す。おそらくタクシーにも乗れまい。そもそも、他人から認識されない私がどうやってタクシーを利用するというのか。

 通りに地下鉄へと通ずる階段があるのが見えた。

 私の脳裏に、天啓とも言えるひらめきが浮かぶ。


 ——私はなぜ地面に立っていられるのだろうか。


 あらゆるものをすり抜けてしまうのなら、私は地面に沈み込んで、地下水道を通り越し、マントルへ到達していないとおかしい。

 しかし現状そうなってはいない。電車内に立つことさえできれば、そのまま連れて行ってもらえるだろう。

 駆け足で怪談を下る。改札は当然素通りだ。おあつらえ向きに、ホームには電車が到着したところだった。

 乗り込んでいく人波を横目に、私は車体の側面を突き抜け、車内へ至る。


 ——電車に乗っている。


 私は床面の下へ沈み込むこともなく立つことができていた。これならば、四十分も身を任せていれば、家の付近へたどり着けるはずだ。

 発車音は私には聞こえなかったが、時間が来たのだろう、扉が閉まる。そのまま地下鉄は滑るように進み始めた。

 吊り革や窓が目の前を流れる。幾人かの乗客も通り過ぎた。

 最後に、車掌が私を突っ切っていく。

 ぽとん、という感じで、私は線路上に着地した。見上げると、ホーム上には次の電車を待つ乗客たちが列をなしている。


 ——置いて行かれた。


 芽生えかけた小さな希望がパラパラと散っていく。

 やはり電車に乗ることはできないらしい。車内に立つことはできても、移動の慣性に私の身体はついていけなかったのだ。

 それならなぜ私は立っていられるのか。

 足元に意識を向ける。相変わらず、踏みしめる感覚はない。

 ずず、と私の足が地中に沈み込んだ。

 線路に足首までが埋まっている。加速度的に、膝、太ももまでがのまれ始めた。

 私は慌てて足を引き上げようとする。すると、私の身体はするすると浮かび始めた。

 どうやら、私の身体にはある種の浮力が働いているようなのだ。だから、地面に立っているというのは幻想で、地面の位置に浮かんでいるというのが正しい。地面を蹴って歩いているのではなく、足を動かしながら前方へ推進しているだけなのだ。

 私の身体を、通過電車が突き破って走り去っていった。

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