19 伊藤若冲 『動植綵絵』とその後


 『動植綵絵』30幅中の『秋塘群雀図』に寄り道してから本題に入ります。


 雀が「爵」に通じて、吉祥図題だというのは以前に述べました。(置かれたシーンによってその意味は違ってくる、と読者の方から教えていただきましたので、付言しておきます)

 この絵をよく見ると、無数の雀のなかに一羽、白い雀が紛れこんでいるのに気づかれると思います。


 白もめでたい瑞祥です。例えば白鶴、白鹿(酒の銘……)。神の使いともされ、同じ系列に白馬、白蛇、あるいは白雪……挙げだしたら切りがありません。

 そして無数の雀は「百雀」とも言えそうです。「百」と「白」とは通じて、やはりめでたい数字。


 ほとんどの雀が一様に進行方向へ頭を向けるなか、左上の二羽だけ首を傾け、白雀の方を向いています。これは「白雀に注目せよ」とのメッセージと見ることも可能です(やや牽強付会に過ぎるかも)。

 というわけで、めでたい図であるのは疑いないのですが、どうして白雀は一羽だけなのでしょうか。


 私の答えは、「一+白=百」の言葉遊び、という仮説。

 ただし、あくまで素人の仮説です。もっとしっくりくる、深い解釈があれば、あっさり撤回します。



 ……さて、ようやく本論です。


 『動植綵絵』が若冲の畢生の大作であることに、誰も異を唱えないでしょう。また、彼の魅力の最たるものが、その濃密な画面であることも。


 ただ、それが若冲の画業のすべてではありません。

 若冲は『動植綵絵』を描いているころ既に、趣を異にする水墨画を多数描いています。上の『秋塘群雀図』からして、「写生派」「濃密な花鳥画」といった見方に収まるものではないですよね。


 『動植綵絵』後、30年以上も彼は描き続けます。描かれた絵の特徴を端的に言うなら、枯淡でまた軽妙。まるで宗旨替えしたかのような大転換で、『動植綵絵』を愛する方々の期待を裏切るかもしれません。

 その変化の理由を経済的な逼迫や年齢的な衰えに帰する見方も可能ですが、それだけで片づけると、若冲を見誤ります。

 むしろ、そこに彼の深化を見ることができると思うのです。


 最晩年の作では『群鶏図押絵貼屏風』。筆が自由を得たような生き生きした尾羽根に注目です。「生を写す」が最後に辿り着いた境地をそこに見てよいと思います。


 あるいは『伏見人形図』の、緊張感よりも温かさが前面に出た画面。30年前に描かれていた『寒山拾得』や『蝦蟇鉄拐』と見比べるのも面白いかもしれません。



 * * *


(参考)伊藤若冲筆『秋塘群雀図』『群鶏図押絵貼屏風』『伏見人形図』『寒山かんざん拾得じっとく図』『蝦蟇がま鉄拐てっかい図』


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