14 朝鮮民画 キュビズム顔負けの空間表現


 「朝鮮民画」というものをご存知でしょうか。

 その名の通り、民衆が手遊てすさびに書いたような、素朴な絵。

 文人画のような高尚な精神性が漂う絵ではありません。専門画工や芸術家の手になる精巧な絵でもない。

 あるいは文人や職業画工が描いてもいるんでしょうけど、「不朽の名作を描いてやる」なんて気負いはなく、たぶん毎日何十枚と描き散らすような、そんな絵です。

 なのに、とても心惹かれる、うっとり見入ってしまうような、不思議な絵なのです。


 裏をとってはいないのですが、たぶんこんな絵が、江戸時代の日本にもたくさん来ていたんじゃないかと、私は想像しています。(またも暴論かも)



 その話をする前に、東洋絵画のなかの水魚図についてすこし触れておきましょう。


 中国でも日本でも、魚を描いた絵はたくさんあります。吉祥図として恰好の画題だから、というのがたぶん大きな理由。


 水中を游ぐ魚を絵にするとして、皆さんなら、どこから見た姿を描きますか?

 東洋絵画では、上から見るのと、横から見るのと、どちらもあります。(でも下から見るって構図は見かけませんね)

 そして、ひとつの画面に、往々にして両方の視点が混在しているのです。あるいは、「蓮池游魚」という画題で、池に浮かぶ蓮の葉は上から見た形なのに、游ぐ魚は真横から見た姿。

 じつに大胆です。これを未熟と見る向きは多いかもしれませんが、そう断ずるのは危険だと私は思います。

 例えば東洋の山水画は、視点に意識的です。また、遠近法も知っていた。知っていて敢えて、そのように描いたのではないか。彼らはその構図のもつ不思議な魅力を知っていたのだと、私は想像します。


 その構図の大胆さにおいて、朝鮮民画は最も先鋭的です。縦長の画面の上部には真横から見た魚。中部には上から見た姿。そして最下部には、川辺の木や、陸上を歩く蟹。上下転倒した未知の世界が現出し、脳は混乱して鑑賞者に空間認識の破壊・再構築を迫ります。


 さて、たびたび登場する伊藤若冲の『動植綵絵』。

 ここにも、強烈な空間の転換が見られます。『蓮池游魚図』『群魚図』『池辺群虫図』は東洋の水魚図の系譜に連なるものですが、その視点の自由さたるや、朝鮮民画並み。

 若冲は、朝鮮民画を見ていたのではなかろうか……と私は想像するのです。



 * * *


(参考)伊藤若冲筆『蓮池游魚図』『群魚図』『池辺群虫図』(『動植綵絵』中)

    朝鮮民画は、「朝鮮民画 魚介」ぐらいで画像検索してみてください。

 


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