13 北斎も若冲も、西洋画の影響は受けていた


 江戸時代にも、「洋風画」を描く一派があったことは知られています。(高校の教科書にも載っていたような…)


 秋田蘭画と呼ばれる一連の画が描かれ出したのは、18世紀後半。伊藤若冲(1716~1800年)、円山応挙(1733~1795年)などが活躍した時期とも重なります。

 これは偶然ではないと思います。


 秋田蘭画と写生派の絵を並べてみると、どことなく似ているのです。

 それはおそらく、彼らも写生派と同じく、中国から来た写生のムーブメント(日本では「南頻派」と呼ばれます)の影響を受けたから。そして中国での写生派的画風の流行も、元を辿れば西洋画の影響を受けているのです。


 「写生」の意味は前回にも述べましたが、「お手本ばっかり写してないで、実物としっかり対峙すべきだ!」という思想は至極当然で、目新しいものではありません。

 それよりむしろ、むっちりした西洋画の質感と出会って「新しいリアル」の刺激を受けた結果が写生派なんじゃなかろうか、という想像もふくらみます。

 そう思うと、あの濃密な色づかいの奥には、西洋の油絵の、こってりした血が流れているような気がしてきませんか。



 話を少し変えましょう。

 葛飾北斎(1760~1849)も、18世紀のうちには画業を始めていますので、すこし下の世代とはいえ、まあほぼ同じ時代を生きていました。

 彼は、「眼鏡絵」を描いていたことが知られています。からくりのようなもので、箱の中を覗くと、絵に描いた景色が立体的に見える、というものです。

 これは、西洋から来た線遠近法を駆使したものでした。北斎があの構図のセンスを磨く上で、眼鏡絵を描くことも一役買ったはずです。


 北斎だけでなく、多くの絵師がこの眼鏡絵を描いていたようです。もちろん京都の画家たちも。そして、京都の名刹、大阪の豪商がパトロンになることで、珍しい文物に触れる機会も多くあったことでしょう。

 例えば、『動植綵絵』の中にある白鸚哥インコも、若冲は実物を見ていたんじゃないかと想像します。

 また、新世界の発見と大航海時代を経て、ヨーロッパで需要のあった博物画を、写生派の画家たちは見ていたかもしれません。そう思えるほど、ヨーロッパの博物画に不思議な既視感を感じるのです。




 * * *


(参考)小田野直武筆『東叡山不忍池』

    円山応挙『写生帖』

    「眼鏡絵」や「浮絵」で画像検索(⇒北斎や応挙などの描いた眼鏡絵)

    「博物画」で画像検索(⇒珍しい動植物を描いた西洋の版画)

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