12 写生派 模写もするのです


 江戸時代のある画家たちや、ある流派は、写生派と呼ばれることがあります。


 代表的なのは円山応挙と、その弟子たちである円山四条派の面々。

 あるいは南蘋なんぴん派や長崎派などと呼ばれる一連の画家たち(後で再度触れます)。

 また、伊藤若冲も、庭に鶏を放し飼いして観察したというエピソードが有名です。


 とはいえ、総じて江戸時代の画家たちは、模写を大事にしました。画家修業は、「粉本ふんぽん」と呼ばれるお手本の模写から始まります。

 また、お寺やパトロンの縁から名画に触れることのできる画家は、名画を熱心に模写しました。しかもその模写を作品として堂々と残しています。

 例えば俵屋宗達の『風神雷神図屏風』は、尾形光琳が模写し、さらに酒井抱一が模写して、いずれも名品とされています。


 では写生派は、模写を是とする彼らとは一線を劃していたのか?

 模写をしないか、という点でいうと、答えは完全に「NO!」です。


 むしろ、若冲は、執拗に模写しまくっていました。

 若冲の凄さは、夢中で模写しているうちに画の神が降りてくるのか、気づけばオリジナル以上のものが出来上がってしまっているところにあるのだと思います。


 「写生」とは「せいを写す」です。「生」とは「性」であり「精」であって、鶏なら鶏の、魂だとか本質を写すことを目指して、それは粉本ばかり見ていても学べない。というのが写生派の画家たちの発想です。

 現代的な意味での「写生」はもちろんしますが、それは手段であって目的ではありません。

 単に形だけ正確に写しとっても、その生命の躍動を捉えることができなければ、「写生」とは言えないのです。


 さて、この写生派のムーブメントは、実は中国からやってきました。長崎に滞在して技法を伝えた沈南蘋しんなんびんの名をとって南蘋派(あるいは発信源の地名から、長崎派)と呼ばれ、流行しました。

 応挙と若冲はほぼ同時代人ですが、同時期に同じような写生を志したのはたぶん偶然ではありません。中国から来た流行を、敏感に吸収したのだと思います。情報の中継に、京のお寺さんたちの貢献も大きかったでしょう。


 実は彼らは、西洋の絵や文物も見ていたはずですが、その話はまた次回。



 * * *


(参考)岡岷山筆『老松孔雀図』(⇒若冲の模写と見比べてください)

    伊藤若冲筆『老松孔雀図』(上の絵の真似っこですが、オリジナルを凌駕しています)

    円山応挙筆『牡丹孔雀図』

    沈南蘋筆『雪梅群兎図』

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