4 鳳凰には桐がつきもの


 西洋美術でも、なにが描かれてあるか分からせるためのヒントとして、セットで表されるものがありますよね。

 例えば――

 洗礼者聖ヨハネは杖を持っている

 エロース(キューピッド)は弓矢を持っている

 ヘルメス(メルクリウス/マーキュリー)の靴には羽根がある


 東洋美術の世界でも同じようなものはあって、

 例えば四天王のなかで、一番人気の多聞天(別名は毘沙門天)。どれが多聞天? と探すなら、宝塔を持っているのが多聞天です。


 前回の花鳥画吉祥図からの続きで、鳳凰で言うと、桐とセットで出てくるのが普通です。これは、「鳳凰は梧桐にあらざればまず。竹の実にあらざれば喰わず」とされているからです。(私の知る限り、古くは『詩経』に記載。実はもっと遡るのかも)

 高潔さを表しているわけですが、ずいぶん気難しい鳥ですね。

 清廉潔白な人物って、一方で往々にして扱いにくい人物でもある……と象徴するような設定だなあと私なんかは思ってしまいます。。



 そうは言いながら、松の樹にとまる鳳凰を描いた図もけっこうあったりします。

 これはなぜかというと、おそらく松と鶴のセットからの流用。


 松に鶴、という画題は典型的吉祥図です。鶴が瑞兆であることは前回触れました。そして松は冬でも葉が緑を保つ、めでたい樹。永遠の若さ・生命であり、また、節操の堅さをも象徴します。

 ここに日輪が加えられると、もう無敵。生命力が横溢しまくっています。


 そこで、このめでたい取り合わせは流用されて、鶴の代わりに孔雀だったり鶏だったり、猿だったり鸚哥インコだったりが置かれます。もちろん鳳凰も……というわけです。

 吉祥図案の絶大な影響力の前には、いかに気難しい鳳凰でも、こだわりを捨てざるを得ないようです。

 そんなときでも申し訳程度に、画面の端っこに桐の葉が描かれているのは、「梧桐にあらざれば栖まず」の設定を、皮一枚残してかろうじて守っているのでしょう。



 * * *


(参考)狩野派『鳳凰図屏風』

    伊藤若冲筆『老松白鳳図』(下の方にちらほら桐らしき葉が…)

    「多聞天」や「四天王」で画像検索すれば、仏像がたくさん出てきます

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