□芙の四
——こうだったらよかったのに、こうしていればよかった、こうすべきだった。そうやってかつての行いを悔やむことは、適切な範囲であれば反省として活かせるけれど、行き過ぎると身を焦がすだけだ。でも、こうしたい、こうありたい、こういう風になりたいと望むことは、たとえそれが実現不可能な到底叶わぬ夢だとしても、そこに向かって歩く希望になる。きっと、今を生きるために未来はあるんだ——
昨日までの雨はすっかり止んで、絶好のお出かけ日和になってしまった。昨夜眠りにつくときは、雨が止まなければここを出ない理由になるのに、なんて考えていた。
まだ早朝の包蓮荘は静かな眠りについていて、けれど美月さんだけは目が覚めてしまったので、と言ってわたしに簡単な朝食を拵えてくれた。居間のテーブルでおにぎりを食べるわたしに、美月さんは問いかけて来る。
「本当に、もう行くの?」
「はい、決めたことなので」
「何もこんなに朝早くに行かなくても」
「なるべく、早い方がいいと思ったんです。みんなに、心配かけたくないし。午後からまた降るみたいだし」
「気をつけてね、昨日の雨で足元がぬかるんでいるだろうし」
「はい。おにぎり、おいしかったです。本当に、ありがとうございました」
「何を改まって」
「美月さんだけじゃない、わたしはこの包蓮荘にいる人、みんなに感謝しているんです。もし、ここに来なかったら、わたしは大事なことを忘れたまま、大人になってしまっただろうから」
昨日、蓮介に真実を話したときのことを思い出す。話をしてすぐ、何かぴんと来たのか、目を丸くしていた。彼は何も悪くなかった。なのに、わたしがそうされたと思い込んでいたのと同じように、わたしは彼の二年間を棒に振らせてしまったのだ。
でも、蓮介は謝ろうとするわたしを制して、辛いことを思い出させてごめんな、と言った。わたしの方こそ、本当にごめんなさいと謝って、その後なんだか可笑しくて笑い合った。縁側から雨音がカーテン越しに漏れ聞こえていた。
「それでは、いってらっしゃい」
玄関まで美月さんが見送ってくれた。その時々で面子は変わるけれど、いつもと変わらない日常風景だ。いつもにこやかな美陽さんが立っていることもある、寝ぼけ眼の絵美さんが気だるげに手を振ってくれることもある、蓮介が照れ臭そうに手をひらひらさせてくれることもある。わたしが出かけるときはいつも、誰かが見送ってくれていたのだ。
「うん、いってきます」
荷物を持って引き戸を開くと、朝の光がわたしの影を玄関に伸ばした。
朔葉の町は雨水をたっぷり受けたおかげで、朝日を浴びて瑞々しく輝いていた。葉の一枚一枚に水の粒が滴り、時折水溜まりに落ちて小さな波紋を作る。まだ一日が始まっていない家並みは静かで、反対に花野橋の真下で川は絶え間なく流れていた。
ここが、全ての始まりだった。わたしがいじめられるほど弱くなければ、人を呪おうとするほど弱くなければ、傷つかずにも傷つけずにもすんだのだろう。それを思っても仕方がないのだけれど。
花野橋は今日も悠然と架かり、街と町を繋いでいる。時々走る車を除けば、この鉄橋を歩いているのはわたししかいない。ここを渡ってしまえば、先ほどの日本家屋が並ぶ風情ある町並みは絶え、近代的な計画都市に変化する。そのどちらにも思い出が沢山あり、以前は田舎側の方が好きだったけれど、今は都会側も同じくらい好きだ。いや、包蓮荘での思い出の分、若干田舎側に軍配が上がるかもしれない。
幾つかのビルを横切って、ミスタードーナツの前を通過する。もう、駅についてしまう。地下にあるホームへ向かうために、階段を降りていく。ごう、と強い風が地下から吹き込んできて、電車が来たのだなと分かった。
ICカードにお金をチャージして改札を通り抜ける。電車が訪れるホームに向かうために、更に階段を降りていく。先ほどやってきた電車は普通電車だから、快速が来るまで、ベンチに座って、リュックを膝に抱えて待つ。今日最初の快速に乗るんだ。
駅にはあまり人がいなかった。祝日で、時間帯を思えば当然である。初めてこの駅に来たときも、このくらいしか人はいなかった。閑散とした駅も、今となればどこか温かみや懐かしさすら感じる。
数分の後に、低い、地鳴りのような音がして、生温い風が吹き込んでくる。電車が来た。リュックを背負い直して、電車の扉が開くのを待つ。数瞬の後に、ぷしゅーと音を立ててドアが開いた。
踏み出した一歩が電車に差し掛かる直前のことだった。
「平安寺——!」
聞きなれた男の声がわたしを呼び、わたしの左腕を握る。
「ま、間に合った、よかった……!」
声の主は、歳の同じ兄だった。
「蓮介、どうしたの、そんなに急いで」
「いや、お前が出ていくって、みんなが、言うから。何も、こんな朝早くに出ていくことないだろ」
「いや、わたしは」
「待て! オレにだって言い分があるんだ。それを聞いてから、電車に乗るかは決めてくれ」
鬼気迫る表情に、思わずうなずいてしまった。
「オレ、昨日の平安寺の話を聞いて、確かに思い出したんだ。オレは平安寺を突き落としてなかった。その後、平安寺を追いかけようとして野々目さんに止められた。ずっと、周りが捏造した過去の上をオレたちは生きてきた。それで、色んな苦しいことがあったよ、両親は離婚したし、母親は今も入院中で、叔母の家に移住することになって、平安寺も色んなものを失ったと思う。だけどさ」
蓮介は一呼吸おいた。喉が動いたから、生唾を飲み込んだのかもしれない。
「周囲が作った記憶の上を歩いたおかげで、野々目さんや平安寺に会えた。絵美ちゃんや美陽さんと一緒に暮らすことができた。家族が増えた。オレたちをさんざ苦しめた、過去を捏造した奴らに感謝することはなくても、本当ならすれ違いもしなかった人たちと巡り合えたのは事実だ。だから、その、なんつーかさ」
彼の眼差しは、まっすぐわたしを見つめていた。
「野々目さんは過去を変えることはできないって言ってた。だけど、真実が平安寺のことを苦しめるなら、包蓮荘から追い出してしまうんなら! だったら、そんな過去は変えちまおうよ。オレは平安寺を追いかけて突き落とした、追い打ちをかけようとしたところを野々目さんに止められた、平安寺はオレに突き落とされて川に落ちてしまった。それでいいじゃないか。それでいいから、戻って来てくれよ!」
やっと突き止めた真実を、なかったことにしようと蓮介は言ってるんだ。
「それで、蓮介は辛くないの?」
「平安寺が出て行っちゃうことの方が辛い。あの日、平安寺が言ってくれたのと同じで、オレだって包蓮荘に平安寺が居ないと、幸せになれないから」
蓮介は目を逸らさない。わたしには、それで十分だった。
「ありがとう。でもね、蓮介は何か勘違いしてるよ」
「へ? 勘違い?」
先ほどまでのシャープな声はどこへやら、間の抜けたオウム返しだ。
「わたしは、別に包蓮荘から出て行かないよ?」
「でも、実家に帰るんじゃ」
「帰るよ、でもそれは両親が前来たときみたいに、昔のものをひっぱり出されないように処分しに行くのよ。ちょうど連休だし」
「大荷物抱えて出て行ったって」
「リュック一つだけれど」
わたしが持っているリュックを掲げて見せると、蓮介は腕を組んでしばらく頭を傾げた後、しゃがみこんだ。
「な、なんだよなんだよ。美陽さんと絵美ちゃんに担がれたのか」
悪戯好きな二人だ。蓮介をからかったのかもしれない。蓮介の近くに歩み寄ってしゃがみ、目線の高さを合わせる。
「いや、でも、気持ちは嬉しかったよ」
「ちょっと待て、オレめちゃくちゃ恥ずかしいこと言ってなかったか、うわー、記憶消したい、最悪!」
ここにきて蓮介はわたしから目を逸らして俯いた。
「えへへへ、かっこよかったよ」
笑っているのに、涙が零れそうだ。恥ずかしいな、わたしたち。
「あ、平安寺、電車!」
蓮介に指差されて後ろを向くと、扉は閉まって快速電車が出て行ってしまった。
「行っちゃったね」
直後、初期設定の着信音が鳴る。わたしのスマホではない。
「あ、絵美ちゃんからだ。もしもし、マジで最悪なんだけど。へ? あ、うん。スピーカーにする」
蓮介がスマホをタップすると、間の伸びた女性の声が聞こえてきた。
「はろー、フーミン聞こえてる? いや、いいでしょ別にスピーカーでも。どうせこの時間帯は駅に人いないしー。あのさ、電車逃しちゃって、ただでさえ出発が遅れちゃったところ申し訳ないんだけど、からかうためとはいえ大急ぎでレンの尻叩いちゃったから、そこにいるレンもアタシたちもご飯食べてないんだよねー。フーミンもちょっとしか食べてないでしょ? 今ちょうど駅前のカフェが開店したっぽいからさ、モーニング食べようよ。奢ったげるから、ママが」
会話の後ろで、美陽さんや美月さんがわちゃわちゃとツッコミを入れる声も聞こえて来ていた。
「アタシたち、みんな改札出たところにいるからさ、フーミンがよければ駅員さんに言って出してもらってよ。ほーら、早く、お腹すいたー」
スマホの通話が切れた。
「はぁ。相変わらず自分勝手な姉だ。どうする? 行くか?」
「もちろん!」
蓮介と二人でホームの階段を上がる。改札の向こう側で、三人が三様の仕方でこちらに手を振っていた。
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