◆月の四……①
——未来がどうなるのかなんて、ちっとも興味が沸かなかった。常に何かをしていなくてはならず、選択を続ける中で、将来こうなれたらいいな、とか、いつかこういうことをしてみたいんだ、だとかはぼくのものではないと思うようになっていった。生きているだけで万々歳、そう言い聞かせて押し込んできた未来像のふた。それを開いてくれたのは、紛れもなく包蓮荘のみんなだった——
「高橋は確か、二年三組、二年三組。うわぁ、元クラスメイトに会うだけなのに緊張する」
蓮介くんは落ち着かない様子でスリッパに履き替えた。何度か靴を袋から落としていることから、本当に緊張しているみたいだ。
「ぼくは居た方がいいですか? 話がややこしくなりそうなら、よそに行ってますけど」
蓮介くんに提案する。彼一人の方が、話はしやすいかもしれない。
「ほ、本当はそばに居て欲しいすけど、オレ、一人で頑張ります」
「そう。それではぼくは、お世話になった先生に会ってきますね。頑張ってください。終わったら、一年二組で合流しましょう」
ぼくたちは第一校舎の階段の前で別れを告げた。さて、久しぶりの母校だ。第二校舎にある職員室に向かうために、渡り廊下へと向かう。校内には父兄や子どもたちがいて、お祭りのような状態になってはいるけど、校舎自体はぼくが居た頃から何も変わらない。ただ、見えないところで四年分、お互いに歳をとってはいるのだろう。
第二校舎の二階、職員室の前には広い空間があって、おそらくはOBと思しき大学生くらいの人たちが先生たちと談笑している。目的の恩師は、ここにはいないみたいだ。
「すみません、一ノ瀬先生はいらっしゃいますか?」
手の空いてそうな眼鏡をかけた背の高い先生に声をかけてみる。
「ああ、一ノ瀬先生ね! ちょっと待ってて、呼んでくるから」
そう言うと、職員室の扉に顔を突っ込んで、一ノ瀬せんせー! と大声で呼び出しをしてくれた。
「うん、すぐ来ると思う。あれ、もしかして、野々目さん?」
「あ、えーと、小野田先生!」
小野田先生は二年生のときに古文を教えて下さった先生だ。スーツ姿しか記憶になかったので気付かなかった。
「良かった! あの後、どうだったのか心配だったんだよ。学校側には全然連絡なかったものだからさ。結局、大学には入れたの?」
「あ、いや、それは」
「あ、一ノ瀬先生来たみたい。詳しい話はまた先生に聞くよ。とにかく元気そうで良かった、それじゃあ」
小野田先生はそう言うと職員室に消えていき、代わりに白いあごひげを生やした中年の男性が現れた。この人は変わらない。
「一ノ瀬先生、お久しぶりです」
「ああ、野々目君! こんな老骨を呼び出すなんて誰かと思えば」
「まだまだお元気そうで何よりです」
「それはこっちのセリフだよ。本当に、無事で良かった」
先生はあごひげを撫ぜながらそう言った。
「そんな、大げさですよ。ご無沙汰してしまい、申し訳ありませんでした。小野田先生も仰ってましたが、ご心配をおかけしていたみたいですね」
「花野橋での一件から、君が大学受験を断念せざるを得なくなって、でもご父兄には何度か連絡をしたんだ。君は成績が優秀だから、ぜひ大学に行かせてあげて欲しい、とね」
「そう、だったんですか」
両親からそう言った話を聞いたことは一度もない。きっと尋ねてもはぐらかされたことだろう。
「今は、何をしているんだい?」
「塾の講師業をしています。といってもアルバイトですけど」
「そうか。級友に勉強を教えていた野々目君には、きっと私より向いているだろうね」
「そんな! まだまだ、先生には全く及びませんよ」
一ノ瀬先生は三年生のときの担任だ。社会科の先生で、ぼくは一年生のときに倫理を、二から三年生にかけて世界史を教わった。この人のおかげでぼくは歴史や哲学に興味を持った。でも、それは昔の話だ。
「君は、これから講師業を続けていくつもりなのかい?」
「それは、まだ分かりません。人に教えるのは、向いてないではないと思うのですが。正直、今の生活が気に入っているんです」
包蓮荘での暮らしを脳裏に思い浮かべる。
「差し支えなければ聞きたいんだけど、どこで生活しているんだい?」
「ええ。実は包蓮荘という場所でシェアハウスのようなことをしていて」
「包蓮荘? もしかして、平安寺君と同じところかな?」
「芙美子さんをご存じなんですか?」
「ご存じも何も、担任だよ」
同じ学校だから、生徒のうちの一人として把握しているかもしれないと思っていたが、まさか芙美子さんの担任だとは。運命は数奇なものである。
「そうかそうか、いや、得心行ったよ」
「何がですか?」
「平安寺君と二者面談した時、話に上がったんだ。平安寺君は下宿で生活しているから、色々心配で訊いてみたら、優秀な先生が同居しているから勉強は何の心配もないですってね。その先生は料理人でもあって、おまけに兄みたいに頼れる存在だから、いつも助けてもらってばかりだって。そうか、君のことだったのか」
「なんだか、照れますね。そこまで真正面から褒められると」
「そうだね、今の生活に満足しているのなら、それはそれでいいんだが。もう一度、大学受験に挑戦してみる気はないのかい?」
「え、大学ですか? もう二十一ですよ、今更大学なんて」
「いや、学びに年齢は関係ない。それは平安寺君と生活している、君が良く分かっていることじゃないのかね?」
未練は、捨ててきた。ぼくは縁がなかったのだと思うようにしてきた。ただ、同じ理屈をぼくが芙美子さんに振りかざすわけがないのも確かだ。
「君が勤勉なことは私もよーく知っている。働きながら大学に通うのは大変だと思うが、奨学金だってある。一度、考えてみたらどうだい?」
「そう、ですね。考えるだけ、考えてみます」
思いつきもしなかった。社会人をしながら大学に通う人々の話はテレビやニュースで幾らでも目にする機会はあったが、それらはぼくに当てはまらないことだと考えていた。急に、視界が開けたような気がした。
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