■蓮の四……①

——未来は、過去と地続きだ。そんなこと誰でも分かっているのだろうけど、オレは分かってなかった。だから、過去を見てみぬふりをしていてもそれで生きていけると思っていたし、現に今の今までそうやって生きてきた。でも、やっぱりそれじゃ駄目なんだ。時間に埋もれてしまった、あるいは自分で埋めてしまった過ちをもう一度見つめ直すために掘り返す。そして、今度こそ人並みの幸せを手に入れてみせる——


 感情も記憶も、整理が追いつかないまま帰ってくることはないだろうと思っていた包蓮荘に到着した。雨風を浴びて多少は雰囲気の出たダサい看板、それとは不釣り合いなほど立派な日本家屋。からからと引き戸を開けた。まだ蝉も鳴いていないからしんとしているが、どうやらもう野々目さんは起きているみたいだ。


「キッチンに行こう。朝ご飯の準備中みたいだ」


 平安寺に提案すると、こくりと頷いて来た。廊下を軋ませながら、目的地へと続くガラス戸を開く。


「ああ、お帰りなさい。まだ朝ご飯の時間には早いですよ」


 野々目さんはこちらに向き直ることはなく、コンロの上の鍋をお玉でかき混ぜていた。


「えと、おはようございます」

「わたしたちが外出していたの、気付いてたんですか?」

「ええ。蓮介くんが出て行ったあと、追いかけようかとも思ったのですが、芙美子さんがついて行ったのを見て、ぼくが出る幕ではないのかな、と」

「そう、すか。なんか、恥ずかしいすね」


 野々目さんにも見られていたのか。なんだか、杜撰なことをしてしまっていたな。どこまでこの人は察していたんだろう。


「あの、美月さん。思い出すの辛いかもしれないんですけど、聞きたいことがあって」

「なんでしょうか」


 野々目さんは後ろに結わえた髪を揺らしながら、ようやくこっちを見てくれた。


「えと、野々目さんが花野橋で、自殺しようとした人を止めた話です。もし思い出せるなら、具体的な日付とか」


「ちょっと待ってください、順を追って思い出します。えっと、あれは確か二月の二十五日のことで、受験しようとしていたのが東京の大学だったから、早朝に駅に向かったんです」


 二月二十五日。


「それって、土曜日ですよね?」


 平安寺が差し込む。そうだ、あれは土曜日のことだった。


「ええ、確か。よくご存じですね」

「それで? その後は?」

「その後は、ぼくの家があった場所はここからほど近くて、だから包蓮荘から駅に向かうのと同じで花野橋を渡らなくてはならないのです。時刻はおそらく今と同じくらいで、人通りの少ない、まだ薄暗い早朝の花野橋。大きな水音が聞こえて、それから男の子が橋の欄干に足をかけて、飛び降りようとしていたものだからそれを止めて」


 話の筋は通る。ただ、これが事実だとしたらオレは平安寺だけじゃなくて、野々目さんの人生まで壊したことになるんじゃないのか。


「それ、その、オレだったかも知れないんすよ、ね」

「わたしを蓮介が突き落としたのも花野橋なんです。その後、蓮介も橋の欄干に足をかけたらしくて」

「た、確かに。そう言われると蓮介くんとあの少年は似ていた気がします。でも、だとしたら変ではありませんか?」


 野々目さんはぐつぐつと音を立てる鍋に向き直り、コンロの火を小さくした。


「変、ていうのは?」

「だって、もし本当に蓮介くんが芙美子さんを突き落としたのだとしたら。なぜその後で蓮介くんは橋から飛び降りようとしたのですか?」

「いや、でも、それって橋から飛び降りようとしたんじゃなくて、落ちた後の川の様子を確認したかっただけかもしれないすよ?」

「そうだとしたら、手すりに足を乗せる必要はないと思う。ぼくの記憶が確かなら、あとちょっとでも遅ければ、落ちてしまいそうだったから」


 本当にオレが橋から飛び降りようとしたのだとしたら、何故オレは平安寺の後を追うように身を投げようとしたのか。突き落としたことを後悔して、オレはその場で飛び降りようとしたのか? 当時のことがまるで思い出せない。いや、思い出そうとしてこなかったのか。


「オレには、分かんないです。よく考えたら、当時のこと、朧げにしか覚えてない」

「記憶は、本人が思っている以上に曖昧なものなんだと思う。芙美子さんや蓮介くんの場合は、特に精神的に負担の大きいことだから余計に」


 きっと、オレも平安寺も、精神的な傷から逃れるために記憶に蓋をしたんだろう。


「でも! 思い出したいんです! わたし、もうみんなとバラバラになるのは嫌。こんな風にならないためにも、今、ちゃんと思い出す必要があると思うんです」


 平安寺は食い下がる。


「お二人にとって、都合の良い記憶だとは限りませんよ?」


 もちろんそうだ。本能的に忘れてしまいたくなるような記憶が、良いものである可能性は低いだろう。


「でも、オレも、向き合わなきゃいけないと思うんすよ。もう、過去に繋がれたままじゃ駄目だと思うから」

「そっか。とはいえ、ぼくが話せることはこれ以上ない、かな。当時のことを知っている人とか、周りにいないですか?」


 しばらくの沈黙。オレは脳内にある少ない友人リストを必死に検索していた。


「あ!」


 平安寺は大きく口を開けて、何かに気付いたかのように口元に手をやる。


「な、何か心当たりがあるのか」

「いや、一応、あるにはあるけど。高橋、覚えてる?」


 高橋。そういえば中学の時、同じクラスにそんな苗字の女子が居た気がする。


「高橋、沙代里だっけ」


 あまり、彼女に対していい印象は持っていない。人のうわさが好きで、方々でクラスメイトの根も葉もない話を吹聴するような、そういうやつだった。


「うん。あの人、実は梅園に通ってるんだ。一応、わたしの先輩ってことになる」

「なんでまた」

「それは知らないわよ。でも、身近にってことならその人くらいしか話を聞けそうな人は周りにいないかも」


 あまり、気乗りはしない。でも、ここで逃げても居られない。


「よし、じゃあ梅園に行くか」

「待って。あんただって今日は学校でしょ?」

「確かに。いや、じゃあ放課後に行くか」

「どうやって部外者の蓮介が校内に入るの?」

「そ、それじゃ平安寺が高橋のことを、学校の外に呼び出してくれよ」

「無理よ。友達でもないし、連絡先も知らないのにどうやって誘うの?」


 それもそうか。かといってオレも連絡先知らないし、学校の前で待ち伏せするか。


「ふふ、うふふ」


 柔らかな笑い声が言い合いを中断する。


「美月さん! なんで笑うんですか」

「いえ、こんなに二人が楽しそうに話しているのを見るの、初めてだなって」

「た、楽しくないですよ!」


 でも、確かに。図らずも、死を覚悟してようやく平安寺と同じ目線に立てた気がする。


「ぼくからの提案だけど。梅園だったら多分、九月の二週目に学園祭があるんじゃないかな? そのときに立ち寄るのはどう?」


 確かに、それなら誰でも学校に入ることはできるか。


「え、学園祭に来るんですか?」


 あれ、ちょっと嫌そう。


「ええ、ぼくも時間が出来たら行こうかな?」

「美月さんまで!」

「なんか、まずいのか?」

「い、いや。別に」

「でも、二週間か。結構先だな」

「ふふ。そんなことないよ。あっという間です。さぁ、ちょっと早いですけど、ご飯にしましょう?」


 話に白熱していたら、結構時間が経っていたみたいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る