□芙の三……①
——わたしは、完璧主義者だった。自分が正しいと思う道を歩くために、色々な人に無理やり道を開けさせた。傷つけることも傷つけられることも嫌で、それを見ているのも嫌だった。あまつさえ、自分が傷つけられているという事実を認めるのすら拒否したのだ。けれど、最近は色んな人に出会って、良くも悪くもルーズになれたと思う。今でも、傷ついている人を放っておくことはできやしないけれど——
暦の上では晩夏だけれど、わたしの経験してきた八月から九月は暑く、特に九月に対しては秋を返上した方がいいんじゃないかと思う。踏みなれた板張りの廊下。居間から台所へと続く道。隣のふすま越しに楽しそうに会話をする声を聞きながら、食器を返しにガラス戸を開ける。
「芙美子さん。お夕食は食べ終わりましたか?」
台所では美月さんがエプロンを着て、食器を洗っていた。美陽さん曰く、近々食洗器を導入予定だそうなので、この姿もそろそろ見納めだ。
「はい。わたし、あまりナスは得意じゃなかったんですが、これなら食べられそうです。醤油味が奥まで染み込んでて、でもさっぱりしてて、口の中でじゅわっと溶けて来る感じがとてもおいしかったです」
「ふふ、それは良かった。食器はその辺に置いておいてください」
「や、でも」
「いいえ、まとめて洗っておきますから。明日から学校でしょ? 準備もあるでしょうから」
別に、食器の一つや二つを洗うくらい大した負担ではない。でも、美月さんがそう言うならと、わたしは甘えてしまうのだった。
「はい、それじゃ、失礼します。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
結局、夏休みをもってしても美月さんの言葉から敬語が離れることはなかった。もちろん、長らく帰省していたのもあるけれど、関係を進めるのは一筋縄ではいかない。
台所から自室に向かう前に、一応挨拶だけ済ませておこう。居間へ続くふすまを開ける。二人はまだ談笑中のようだけれど、絵美さんと目が合って安心した。
「あ、おやすみなさい、お二人とも」
「うん、お休みー」
絵美さんは穏やかに笑った。
「おう、平安寺、お休み」
あいつも今までに見たことのない、満面の笑みだ。
「うげ、い、いや、おやすみ」
違和感が消えない。あいつが元気になったのはいいことだけれど、人はあんなに簡単に復調するものなのだろうか。
自室に帰って、明日の準備を済ませても、まだあいつの顔に張り付いた違和感が払拭できずにいた。なんだか不安だ。心配事ばかりが脳裏をよぎる。明日からの学校でのこと、実家でのこと、美月さんのこと、あいつのこと。ぐるぐると頭の中で悩みごとが回転して、それでも意識は睡魔に飲まれて行った。
引き戸を開けるカラカラという音。最初は美陽さんか美月さんがゴミ出しに向かったのかと思ったが、今日は粗大ごみの日だからそれもないはず。こんなに朝早くに散歩? いや、美陽さんや美月さんが住人の誰にも挨拶もなしに外出はしないし、絵美さんだとしたらもっと足音を立てていくはずだ。
嫌な予感がする。泥棒とか、幽霊とか、そういうことじゃなくて、心臓に冷たい水を直接注入されたような、そんな不安だ。
追いかけなきゃ。直感がそう告げている。
最低限外に出かけられる服装に着替えて、部屋を出る。他のみんなを起こさないように慎重につま先で走り、玄関へ。靴を見て確信した。あいつの靴だけない。
まだ目覚めていない朔葉の町を駆ける。あいつの姿は見えないけれど、どこに行ったのかは検討がついた。畑の続く細い路地を曲がって、折れたカーブミラーを右手に進む。
花野橋。思えば、何を始めるにもここからだった。そして、何もかもを終わらせるにもここが相応しいと考えたのだろう。見覚えのあるシルエットがそこにはあった。
欄干に足をかける男の姿。
周囲には誰も居ない。
間に合え、お願いだから、間に合って。
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