◆月の三……①

——ぼくは、運が悪かった。貧乏な家に生まれたことも、背が伸びなかったことも、大学に行けなかったことも、毎月仕送りしていた家族がぼくに何の連絡もなく蒸発してしまったことも、不幸ではないけど運の悪いできごとだった。不運が生じる度に、こう生きたいを一つ一つ諦めていくのは少し悲しかったけど、ぼくの人生はそういう風にはできていないのだと言い聞かせてきた。ただ、生き永らえて流れ着いた先でここに辿り着けたのだから、今はちょっと運が良くなったのだと思う——




 玄関の戸がからからと開く音が遠くで聞こえる。そろそろ晩御飯の準備をする時間だ。自室で明日の講義用にまとめていた資料をファイルにしまって、階下に降りようとしたのだが、蓮介くんのものとは思えない怒鳴り声が聞こえて、扉の前で立ち止まる。


「もうやめてくれよ!」


 口論になる前に、諦めてしまうのが蓮介くんだから、声を荒げてまで相手の発言を制止するのは、彼らしくないとも言える。何か、あったのだろうか。誰かが、彼の気に障るようなことを言ったのだろうか。


 ギシギシと階下の廊下が軋む音が近づいてきた。重い足取りは蓮介くんのそれだと分かった。包蓮荘全体に緊張感のようなものが張り詰めていたから、なるべく自然を装って話しかけた。


「あ、蓮介くん。ご飯、どうする?」

「えと、部屋に、持ってきてくれると、嬉しいす……」

「うん、分かった」


 蓮介くんが部屋に消える。すると今度は、別の二人が口論する声が聞こえてきた。声から察するに、美陽さんと絵美さんだ。


「なんで! なんで伯母さんとレンを会わせたの!」


 これまた珍しく、絵美さんが声を荒げている。


「なんで、不用意にお見舞いなんかに行かせたの」

「蓮介が決めたことよ。いずれ彼とお姉さんは会わなきゃいけなかった」

「だからって、こんな、蓮介の誕生日に会わせることはなかったじゃない」

「実の母親が自分の子どもの誕生日を祝ってあげられないことがどれだけ辛いか分からないの!」


 美陽さんの叫びは、震えていた。


「分かんないよ、親が子ともの誕生日を祝いたい気持ちも、よりにもよってそんな日に実の子どもに罵声を浴びせる母親の気持ちも——」

「滅多なこと言わないでよ!」

「ちょっと、その辺にしておいたらどうですか!」


 美陽さんと絵美さんの間に割って入る。流石にこれ以上議論をヒートアップさせるのは危険だ。何より、こんな大声では蓮介くんに聞こえる。


「二人とも、落ち着いてください。そんなに熱くなっては話し合いになりませんよ」

「そ、そうね。ごめんなさい。芙美ちゃんも、怖かったわよね」


 芙美子さんは、居間の隅っこでどうしたらいいのかわからず、ずっとこちらの様子を伺っていたようだった。


「い、いえ。その、あいつは、大丈夫ですか?」

「さーねー。ちょっと、アタシも頭冷やしてくる、ご飯できたら呼んで」


 絵美さんは玄関を右に折れて行った。部屋に帰るのだろう。


「はい。美陽さんも無理しないでくださいね。一番お辛いのは、あなたでしょうから」

「無理だなんて、そんな。ただ、ちょっと浅はかだったかしらね。包蓮荘のみんなが、あまりにもすぐ仲良くなれたから、このまま家族を取り戻せると思っちゃってたのかも。私も、舞い上がってたみたい」


 そう言うと、美陽さんは自室に消えて行ってしまった。居間には、よそ者が二人。


「わたし、今日の夕食作るの、手伝いますよ」

「ふふ。お気遣いはありがたいですけど、ぼくは平気ですよ?」

「や、その、わたしが——」


 芙美子さんは首を縦横に振り、何か搾り出そうと必死で言葉を探しているようだった。


「わたしが平気じゃない、から」


 瞳は初めて会ったときと同じように潤んでいた。風でも吹こうものなら零れ落ちてしまいそうだった。


「では、一緒に作りましょうか」

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