■蓮の三

——オレは、自分の人生を歩んだことがなかった。世間が望むように、学校が望むように、友達が望むように、母が望むように。強い人間を演じて、噛みつかれる前に噛みついて、指示を仰ぐのではなく指図をして。強者の仮面の内側にいる弱い自分がばれるのを恐れていたし、本来あるべき正義感を持っていた平安寺が怖かった。今、化けの皮が剥がれた臆病な自分が惨めじゃないとは言えないが、この自分で生きることで人並みの幸せを享受できるような気がしている——


 少し、いや、かなり緊張する。消毒液の匂い、リノリウムの床、時々聞こえてくる空咳に順番に呼び出されて行く患者たち。病院は苦手だ。


「大丈夫、大丈夫よ。最近は安定しているって話だったし、姉さんだって蓮介に会いたいに決まっているわ」

「そ、そうだといいけど」


 オレは今日、ほとんど二年ぶりに母親と会う。母は精神科に入院しており、最近は容態が安定しているらしくて、面会が許可されるようになったのは去年の話だ。ただ、オレの覚悟ができていなくて、ずっとお見舞いには行けていなかった。


「それじゃ、私はここで待ってるから。積もる話もあるでしょうし、まずは親子二人で、ね。帰ったら、ケーキ食べながら花火を見ましょ?」


 美陽さんにはそばに居て欲しかった。でも、オレが包蓮荘での日々をよりよくするために、過去と決別するためには、一人で清算しなくちゃいけないんだと思う。蓮田陽南子と書かれている表札。病室の扉をノックした。


「はい、どうぞ」


 ドア越しに聞こえる女性の声は、少し掠れているが確かに母親のものだった。意を決して、重い扉を開ける。後ろから、小さな声で頑張って、と聞こえた。


 一人用の部屋としてはあまりに広く、そして何もない部屋だった。窓は、廊下側にある小窓だけで、天井は高く、家具の類は部屋の中央にある無機質なパイプのベッドとそのわきに置かれた小さな机以外に、小窓の足元にトイレがあるだけだった。


「蓮介! 良かった、やっと来てくれたのね、ずっと会いたかった」


 母は幾分か痩せていたが、記憶にある通りの姿だった。ほら、取り越し苦労だ。あの頃と何も変わりはしないじゃないか。


「お母さん! オレも、会えて良かった」


 上体を起こす母親の近くに駆け寄る。


「蓮介。元気そうでよかった。ちゃんとご飯食べてる? ちゃんと学校には行ってる? 遅刻とかしてない?」


 質問攻めしてくる母親の足元に座った。


「ご飯は、いつも美月さん、えっと最近一緒に暮らしている人が作ってくれて、食べてるよ。凄く料理がうまいんだ、その人。学校にも、毎日行ってるよ。それこそ、美月さんや美陽さんが起こしてくれるから」

「そう、それは良かったわ。その人たちに迷惑とかかけてないかしら?」

「迷惑は、その、かけっぱなしだけど。でも、うまくやってるよ」

「そう。蓮介のことだから、心配はしてないわ。自慢の息子ですもの」


 母は、そう言うと笑顔を見せた。美陽さんのそれとそっくりだ。なんだかんだ姉妹なのだと分かる。


「自慢の息子だなんて、そんな」


 時々、叫び声や変な笑い声が壁伝いに聞こえてくる。他の病室からのもののようだ。正直、居心地がいいとは言えない。


「高校では友達は沢山出来たかしら? 成績は大丈夫?」

「ま、まあまあかな」


 母は、今でもきっと、二年以上前のオレを見ている。中学生の頃、周りを傷つけても何の関心もなかったころのオレを、ずっと見ている。実の母親なのに、目線が合わない。真っ白な壁に囲まれて、見えるものが変わらないままなのだ。


「オ、オレ! どうしても、お母さんに言いたいことがあって」

「何? なんでも言ってちょうだい。人様に迷惑をかけるようなことじゃなければ、なんでも」


 母は、世間体や外面を気にする人だった。だから、オレは小学生の頃から塾に通っていたし、人一倍勉強もしていた。ただ、オレには期待に応えられるだけの素養はなかったし、そのストレスを発散するためのはけ口もなかった。だから平安寺を——、いや、これは言い訳だ。


「オレ、正直そんなにいい学校には通ってないんだ。成績も真ん中よりちょっと下くらい。友達って言える友達もそんなにいない。でも、すっごく、その、幸せなんだ。新しい家族みたいな人ができて、ほら、オレが事件を起こしちゃった時に突き落としてしまった子。平安寺芙美子って言うんだけど、その人とも今は共同生活してて。えと、何が言いたいかって言うと、結構、自分のやってしまったこととも向き合えて来てるっていうか。別に、良い家に住まなくても、都会に住まなくても、頭が良くなくても、お父さんが居なくても、自慢できるような自分じゃなくても。あの頃みたいにはもう無理だけど、きっとこれからお母さんも包蓮荘で一緒に——」


 ガシャン。何かが落ちる音。本が落ちて、コップから飲み物が零れて、机が倒れる。母はベッドの横にあった机を押して、眉毛をへの字にした。


「何、あんただけ幸せになろうとしてるのよ。あんたのせいで一体幾つのものを失ったと思っているの? 何度もあんたの代わりに平安寺さんの所に謝りに行かされて、夫に家を追い出されて、地域でもつまはじきにされて、私は何もおかしくないのに、こんな監獄に押し込められて! それで! その原因になったあんたは! 抜け駆けして幸せになろうとしているのね!」


 母が眉間にしわを寄せて、三白眼を作って、オレの両肩を掴む。痛い、力強い。何が起こったのか分からない。揺さぶられて、背中に痛みが走る。天井が遠くから、オレを見下ろしていた。


「ちょっと、姉さん! 何やってるの!」


 美陽さんと、看護師さんが入って来て、母を制する。


「あんたのせいよ! あんたたちのせいだ! 私から優しい蓮介まで奪うのね!」


 自分の考えの浅はかさを悟った。オレは、結局自分が助かりたい一心でしかなかったんだ。母親に、この人生を認めてもらえさえすれば、先へ進めた気になれると思っていた。贖罪の一つが終わると思っていた。違った、何も償えていなかった。なんなら、罪を重ねてさえいたのだ。オレの、身勝手な行動は、結局何時だって人を傷つけるのだ。陽の当たる場所で生きようとしてしまったのが、過ちだったのだ。


 気がついたら、精神病棟から出て一階の総合受付まで来ていた。

「ついてなかったわね。時々、ああやって錯乱状態になっちゃうことがあるらしいわ。きっと、久しぶりに蓮介に会えて興奮してしまったのね」


 美陽さんが何かを言っている。


「オレ、オレは——」

「いいの、あなたは何も悪くない。気に病むことはないわ」


 美陽さんは、大げさにオレを抱きしめた。




 呆然としたまま、美陽さんの運転する車で、包蓮荘に帰って来た。玄関で待っている人がいた。


「おかえり、レン。どうだったー、そっちのママは元気だった?」


『姉』は、こちらの事情など露知らず、あっけらかんと接してくる。


「いや、その、まぁまぁ、だったかな」


 感情をセーブして、どうにか取り繕う。


「まぁまぁって何よー。あーあ、早く良くなってくれればいいのに。家族も増えるし、絶対楽しいし」


 何も知らないくせに。


「色んなことがあったけどさ」


本当に助けて欲しいとき、海外にいたくせに。


「今のレンの方が絶対にー」

「もうやめてくれよ!」


 駄目だった。我慢できなかった。大声をだしてしまった。急に辺りがしんと静まり返ってしまった。


「ごめん、オレ。ちょっと疲れちゃったから、部屋に、帰るよ。ごめん」


 いたたまれなくなって、部屋に戻ろうとした。


「蓮介くん、ご飯、どうする?」


 しかし、去り際に『兄』に問われる。


「えと、部屋に、持ってきてくれると、嬉しいす……」


 情けない。階段を駆け上がろうと廊下を走る。


「ね、ねぇ」


 居間から『妹』が顔を出して、声をかけてくる。でも、減速する気にはなれなかった。


「し、しばらく一人にさせてくれ」


 こんなことして何になるんだ。よりにもよって、オレの誕生日に。この町に来たばかりの頃のように、オレは部屋に閉じこもった。机に置いた卓上カレンダー、美陽さんが勝手に書いた赤丸がオレを見つめる。七月七日、七夕、花火大会。全部、全部オレが台無しにしたんだ。

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