□芙の二……④
「そういえば、美月さんって大学になんで行かなかったんですか?」
「行かなかった、というより、行けなかったが正しいです。ぼくは、受験に失敗したので」
「その話は、以前も耳にしましたけれど、受けた大学全部落ちたってことですか?」
美月さんは少し気まずそうに眼を伏せる。まつ毛、長いな。
「すみません、言いにくいことだったら、答えなくて大丈夫です」
「いえ、どこから説明したらいいのか、順序立てるのが難しい話でして。実は、ぼくの家は裕福とは言えなくてですね。大学も自力で、つまりアルバイトや奨学金で生計を立てて現役で行くのであれば受験しても良いという家族の方針がありまして」
美月さんはどこか遠くを見つめながら話を始めた。
「それで、国公立に絞って受験をしようとしたのですが、大学受験当日の朝、花野橋を渡って駅に行こうとしたら、そこで橋から飛び降りようとしている人がいて」
それって。いや、それはわたしではないはずだ。
「それをすんでのところで食い止めて、抵抗されたものだから制して、なだめて、警察の方が後でやって来て、色々と事情を話して解放されたころには試験の開始時間をとうに過ぎていて。一応、遅れて試験を受けには行ったんですけどね、当然ですが不合格になってしまって」
やはり、わたしではなかった。わたしは突き落とされて、止めてもらえなかったのだから。
「その一回きりしかチャンスはなかったですからね。だから、これは仕方のない話」
「なんだか、勿体ないというか、遣る瀬無いですね」
「そうですか? ぼくは、大学に通えなくなった代わりに一人の命が救われたのなら、それで良いと思ってます」
どこまで優しいのだろうか、この人は。
「その、助けた人は、どうなったんですか?」
「さぁ、分かりません。でも、どこかで平穏に暮らしてさえいれば嬉しいです」
それだけでいいのだろうか。わたしだったら、せっかく助けたのだからちゃんと生きていて欲しい。
「ごめんなさい、なんだか暗いお話をしてしまいましたね」
「いや、こちらから聞いたので。それと、美月さんのことが知れて、嬉しいです」
もっと知りたいけれど、今これ以上深い話をするのも、せっかくの時間がもったいないので、残った唐揚げを頬張り立ち上がる。
「行きましょっか! まだまだ見て回りたいところが沢山あるので」
「あ、ママ、レン、ミッキーとフーミン帰って来たよ!」
すっかり日が暮れてしまってから、包蓮荘の引き戸を開けると玄関に三人が立っていた。
「お帰りなさい。もう、遅いわよ」
「お、お帰り。実は晩御飯、どうしようかって話をしてて」
「キッチン番長も家庭菜園番長もいないからさー、もう二人が居ないと包蓮荘は回らないんだよー」
わたしたちは目を合わせて笑った。
「それじゃ、買い物に行きましょうか? ついてくる人!」
「はい!」
美陽さんの声掛けにその場にいる全員が手を挙げた。今はまだ家族で。でも、なるべく早く。踏みしめた足音は夏の到来を求める虫の声に溶けて行った。
七月が始まって一週間がたった。まだ梅雨明けには時間があるけど、独特のじめついた空気やエアコンの利いていない廊下のことなど気にもならないくらい、わたしは包蓮荘に帰るのが毎日楽しみになっていた。この学校では正直、まだ友達はいないに等しいけれど、それが苦になるようなことはない。これから、少しずつ。
包蓮荘での日々を思い返しながら、係の仕事でクラスの古文の課題を集める。
「平安寺さん! 小野田先生の所に行くんなら、これ、ついでに二年三組の高橋先輩に届けてくれない?」
クラスメイトの前野さんから課題を受け取ると、頼まれごとをされた。
「い、いいけど? これは?」
「それ、先輩に借りてた参考書なの。ただ、一ノ瀬先生に呼び出し喰らってて、その後すぐ部活にも行かなきゃいけないからさ、頼まれてくれる、ごめんね?」
「分かった、それじゃ行って来るよ」
前野さんから参考書を受け取る。こういうきっかけでもいいから、クラスメイトと話せるととても嬉しかった。幸いなことに、ここにはわたしのことを知っている人はいない。包蓮荘にただ一人だけ。そして、その彼ともうまくやっていけそうな気がしている。階段を上がって、二年三組の教室へ。
「すみません、小野田先生はいらっしゃいますか?」
「ああ、一年生? ごめんね、今は外しているみたい」
上履きの色を確認して、先輩は言った。
「では、高橋先輩はいらっしゃいますか? 前野さんから預かっているものがあって」
「ああ、高橋なら私だけど。届けてくれて、ありがとね、えっと、平安寺さん」
高橋先輩は再度上履きの名前を確認して、わたしの名前を呼んだ。
「あれ、平安寺? あなた、もしかして平安寺芙美子?」
「え? も、もしかして、た、高橋って」
嫌な記憶が、どろりと蘇る。背後から誰かが駆け寄る音がする。
「平安寺さん、ごめんね。一ノ瀬先生の用事すぐ済んだし、やっぱり自分で返すよ」
横目に赤い眼鏡の少女がちらつく。前野さんが来たんだ。最悪のタイミングだ。
「そっかー、一年遅れでうちに入ったんだね! 良かったー、学校来なくなっちゃったから、どうしてるか心配だったよ」
し、心配? 一体、誰のせいでわたしが学校に行けなくなったと思っているんだ?
高橋は、高橋沙代里は、光見蓮介と一緒でわたしをいじめてきた、クラスメイトの一人だ。
「え? 平安寺さんって、一個上だったの?」
前野さんに会話を聞かれてしまった。
「うん、そうなの! でも、そういうの気にせず接してあげて! 私にも別に敬語なんて使わなくていいからさ、平安寺さん?」
高橋はわたしの心配などどこ吹く風で気安く話す。
「わ、わたしはそんなつもりじゃ」
「とにかく! 確かに受け取ったから、参考書。ほら、前野も平安寺も帰った帰った」
朔葉市にはわたしのことを知る人なんて、もうあいつ以外いないだろうと思ってたのに。最悪だ。最悪な形で、七月が始まった。
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