□芙の二……①

——あの後、わたしは友達を失って家族は過保護になった。あいつが転校した話、わたしをいじめてきた連中が反省しているという知らせ、学校はいつでもわたしを待っているという担任からの連絡。全て両親から伝え聞いたことだ。それらに応じて素直に学校に行けるほどわたしは弱くなかったけれど、すぐに立ち直って人生を歩めるほど強くもなかった。時間ばかりが過ぎて行って、いつの間にか一年遅れ。普通だとかまともだとか、そう形容される人生は歩めそうもないけれど、それでも良かったと言える出会いに今は感謝している——


 六月の雨が原因なのだろうか。たっぷりと水を受けてつやを増す紫陽花や、水溜まりにできる歪んだ街灯の影は確かに美しく、本来なら気が滅入ることなんてないはずだから、きっとわたしの受け止め方が悪いんだ。


 玄関には美月さんと絵美さんとあいつが並んで靴を脱いでいた。


「ただいまー、フーミン」

「た、ただいま」

「ただいま戻りました、あれ芙美子さん。どうしたんですか?」


 美月さんに見上げられて、ばつが悪くなる。


「べ、別に! どうもしないですけど」

「あれじゃない? 三人で出かけちゃったみたいで、怒ってるんじゃない?」

「怒ってないです!」


 つい、大きな声を出してしまった。感情的になるのはわたしの悪い癖だ。落ち着いて、落ち着いて。


「どこに行ってたんですか?」


 まずは場所の確認をする。


「あー、美術館に」

「か、課題の手伝いで来てもらってただけだよ」


 あいつは斜め下を見ていた。そこには下駄箱しかないのに。


「では。美月さんは?」

「ぼくは絵美さんに頼まれて車でお迎えに」


 お迎え? それだけのために美月さんを東京まで駆り出したのか。


「てかさてかさ、聞いてよフーミン。ミッキーってすごく運転が下手くそで」

「ブレーキめっちゃ踏むし」

「ウィンカー出すの遅いし」

「凄い急発進するし」

「肩肘の張りっぷりたらないよ」

「も、もう! ぼくの運転のことはいいじゃないですか」


 でも、美月さん含めて楽しそう。わたしの知らないところでみんながどんどん仲良くなっていっている気がした。


「と、とにかく! 晩御飯についてなんですけど」

「あー、それなら買って来たよ。ほら、この時間から作ると大変じゃない?」

「ええ、美陽さんにも連絡したんですけど、聞いていませんでしたか?」


 何から何まで聞いてない。そして、例え美月さんの運転が下手なのだとしても、伝聞ではなく自分で体験して判断をしたかった。


「そ、そうですか。じゃあ、わたしは部屋で食べますので。後で取りに行きます」


 また、怒ってしまった。最近はセーブできていたのに、別にあいつと一緒でも食事を摂れるようになってきていたのに。でも、これで慰めの言葉をかけられるのも惨めだから、明日の朝までは部屋にこもろう。もう、課題は済ませてあるのだから、のんびりと本でも読んでいればいいのだ。


 それから、食事を摂ってからのことはあまり記憶にない。本の内容はさっぱり頭に入らず、文字だけ追いかけてページを繰り続けていたような気がする。気付けば眠っていて、明日は今日として足音を立てて、玄関を開けていた。


 引き戸を開けるカラカラという音。最初は美陽さんか美月さんがゴミ出しに向かったのかと思ったが、今日は日曜日でゴミの回収はなかったはず。こんなに朝早くに散歩? いや、美陽さんや美月さんが住人の誰にも挨拶もなしに外出はしないし、絵美さんだとしたらもっと足音を立てていくはずだ。あいつに関しては、そもそもこんなに朝早くに起きたりはしない……。




 泥棒?




 その発想に至った瞬間、急に心臓が速く鳴り始める。基本的に包蓮荘の人たちは鍵をかけない。それを田舎の風土として良いものだと考えてきたが、冷静になればあまりに不用心だ。美陽さんや絵美さんを起こす? 警察を呼ぶ? そんなことを悩んでいたら、板張りを軋ませながら歩く音が聞こえてくる。まずい、とにかく様子を見に行かないと。


 そっと扉を開けて、居間の方へと向かう。抜き足差し足、音を出さないように。開け放された居間のふすまの隙間から、廊下をキッチンの方へ歩いていく二人の老人の姿が確認できた。どこか時代錯誤で、だけど上品なスーツ姿。ゆったりとした振る舞い、我が物顔をして闊歩する。


「あれはね、おじいとおばあだよ」


 唐突に後ろから聴こえるハスキーな声。思わず叫びかけて口を押さえられる。


「この時期になると、いつも出てくるの」


 絵美さんの祖父母は聞くところによると亡くなったようだった。まだ盆には二か月もあるこの時期に出て来るなんて。


「きっと、ママのところに行ったんだと思う。でも、大人しくしてれば危害は加えてこないはずだから」


 必死で頷くと絵美さんはわたしの口を押さえる手を離した。きっと、生前の姿のまま、時々この家に訪れて家族の様子を見て帰っていくのだろう。だとしたら、わたしや美月さんは居ても大丈夫なのだろうか。霊の逆鱗に触れやしないだろうか。二つの霊魂は、キッチンの中へと消えていった。


「あれ、普通に引き戸開けるんですね」

「そりゃ、住み慣れた我が家だからね」


 実体のあるタイプの幽霊なのだろうか。張り詰めた緊張感の中、廊下でお帰りを待つ。しばらくの静寂が訪れた後、突然それが突き破られた。


「おめ、いつまで寝てんだっぺ!」


 少ししわがれた、男性の大きな声。


「ちょ、ちょっと! 来るなら連絡して頂戴って毎年言ってるでしょう!」

「じぶんち帰んのになんでいぢいぢ許可取る必要があるんだっぺ!」

「もう、大きい声出さないでよ! まだみんな寝てるのよ?」


 あれ? めちゃくちゃ普通に会話してないか?


「あっは、挨拶しに行こっか、フーミン?」

「あの、絵美さんのおじい様、おばあ様って」

「ん? ふつーに生きてるよ」


 聞いてた話と違う。この恐怖を返して欲しい。

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