◇絵の二……④

「絵美ちゃんさ、世界史の課題なんだけど」

「え! なになにー! 何でも聞いて!」


 晩御飯を食べた後、居間でなんとなくダラダラしていたある日のこと。レンはテーブルを拭き終わった後でアタシが寝転がる横に座り、突然会話を切り出した。珍しい。レンがアタシに勉強のことを聞いてくるなんて珍しい。我が家には優秀な塾講師がいるせいで、その役割がこちらに回ってくることがなかったのだ。


「いや、あの。期待しているようなお願いじゃないかもだけど」

「『弟』のお願いなんて、幾らでも聞いたげるよ、なーに?」

「美術館に行かなくちゃいけなくて。その、選択課題が展示を見て来て文章にまとめるってやつで、ほら、今ちょうど古代ギリシャ展やってるっしょ?」


 あー、美術館か。正直、今のアタシにはあんまり跳ねないなー。


「専門外だなー」

「せ、専門外って。芸術の勉強してたんじゃないの?」

「今はしてないよー。それにやってたのは油絵。古代ギリシャの頃にはあっても陶画かモザイク画くらいでしょー」

「その、難しいことは分かんないけどさ。せっかくだから、誰かと見たいなーと思って。映画じゃなくてごめんだけど」


 なるほどね。この前ミッキーと映画を見に行ったときに、アタシがついて行こうとしたのを断った。それに対する埋め合わせとして提案しているのか。それで、今も絵が好きであろうアタシなら、この提案に飛びつくのではないかと考えたわけだ。実際、中庭でフーミンと楽しく油絵を描いているのを、レンは縁側から眺めていたし。だから、芳しくない反応にちょっと戸惑っているってわけね。まーいいでしょう。気の利かない『弟』にしては結構頑張った口説き文句だと思う。


「いいよー、ついて行ったげる」

「え? あ、ありがとう」

「えってなによー」

「いや、来てくれないのかなぁ、と」

「あっは、ちょうど専門を増やしたかったところなの」


 などというやり取りがあって、アタシたちは電車を乗り継いで東京の国立新美術館までやってきた。それなりにアクセスは悪くないとはいえ、やはり茨城から東京まで電車で来るのは一苦労だ。独特のうねうねした建物の形は嫌いじゃない。中に入っちゃえば見えやしないけど。


正直、二階でやっている現代アートの展示の方がまだ気になるけど、我が『弟』の頼みであるから、一階にある古代ギリシャ展に素直に並ぶことにする。お隣で蓮介は辺りをきょろきょろと見回していた。変わった造りの建物だし、無理はない。アタシも初めて来たときはこのくらい挙動不審だったのかもなー。


「オレ、滅多にこういうとここないから、ごめん」

「別に謝ることはないでしょ。ほーら、さっさと見ちゃおー」


 受付を済ませて展示室に入ると、早速、模様の入った牛の頭が出迎えてくれた。キャプションによると、リュトンと言ってお酒を注ぎ入れる器らしい。角の金色と頭の黒の対比が美しい。模様も有機的で、生き生きとしているように見えた。造形もリアルで、当時の人々の観察力の高さが伺える。別の角度から見てみようかな。


 そんな風にしばらくリュトンを見ていたら、いつの間にかレンが居なくなていることに気付く。レンは既に先の展示へと進んでいた。


「ちょっとー、行くんなら声かけてよ」

「ご、ごめん。絵美ちゃんがあまりにも、夢中に見ていたものだから」

「逆に、レンは時間かけ無さ過ぎ—。そんなちょろっと見ただけじゃ分かんないでしょ」


 言いながらも、そんなもんなのかもなー、とも思う。アタシだって、絵を描き始める前は美術館とか行っても退屈だったし。


「こ、これはどう?」


 レンが明らかに話を逸らすために、展示品を指差した。


「んー? これはまたかわいいねー」

「か、かわいい?」


 指差された作品は、中くらいの壺だった。セピア色の陶器には、タコが描かれている。タコだけじゃない、貝とか海藻っぽいものも描かれていた。さっきのリュトンとは打って変わって、抽象的だ。


「うん、タコの描かれ方とか、写実的ってよりはキャラクターっぽいでしょ?」

「た、確かに」

「素人目に見たら、写実的な絵の方が難しそうって思う人、多いんだろうけどさ。実際のところ、こういう抽象的な絵もそれはそれで難しいんだよね。貝とか海藻とかもそうなんだけど、本来はこういう姿してないわけじゃん? でも、パッと見ただけでそれって分かる。昔の人たちがめちゃくちゃ観察力とか表現力が高かった証拠だよ。世界史の課題で書くんだったっけ? その視点で言うなら、これを作った人たちは相当、海に対して特別な感情を抱いていたことが分かるよね? ほら、キャプションにも書いてある。ミノス文明は海洋文明だったから、モチーフに海を取り入れてるって。昔の人たちから直接話を聞くことはできないけどさー、こうやって作品を通して文化とか当時の様子とか、こんだけ大昔のもの分かるんだって思うと、面白いよねー」


 ちょっと喋り過ぎちゃったか? レンはアタシと作品を交互に見ている。


「す、すげぇ!」


 突然にレンは大声で感嘆する。


「シー! ここ美術館」

「あ、ごめん。でも、すごい。オレだったら、タコが描いてあるな、くらいしか思わないから。絵一つでそんなに色んなことが語れるなんて」

「あっは。それ、褒めてる?」

「褒めてる、褒めてる」


 それならいいけど。柄にもなく語ってしまった。


「もう、今の話だけで課題文書けそうだったもん。じゃあ、こっちは?」


 レンは別の作品を指差した。


「あのさ。アタシはこの時代の作品のこと何も知らないからね?」

「その方が、課題を書く側としては助かる、けど」


 確かに。専門家の意見をまるまる書くとコピペを疑われるけど、素人のそれっぽい意見ならパクリやすいもんね。


「イヤ、自力で書きなよ」


 それはそれとして。レンの指差した作品を眺める。『漁夫のフレスコ画』。他に展示されている多くの作品と違って、色彩鮮やかだ。男性が魚を運んでいる絵のようだ。


 黙々と作品を眺めていると、レンが不安げに見下ろす視線を感じたので、声に出して考えることにしようかな。一応、課題のお手伝いとして来たわけだし。


「第一印象的には、この作品だけ色が奇麗に残ってるなー、と思うね。詳しいことは知らないけど、古代ギリシャの彫刻とかって、白のイメージあるでしょ? でもあれって実は元は色が塗ってあったけど風化しちゃって白いんだよね、確か。だから、これだけ色彩豊かってことは、保存状態が相当良かったってこと。キャプションにも書いてあるんじゃない?」

「あ、ほんとだ。噴火で火山灰の下に埋もれたおかげで綺麗な状態で残ってるんだってさ」

「うん。だから、余計に生き生きしているように見えるよね。買ったのか、漁の帰りか分からないけどさ、さっきの壺と一緒で海との付き合いが深い文化だったんだろうね。髪型もかなり特徴的。やっぱり色がついてた方が情報が増えて、当時の生活をより伺える。でもさー、皮肉なもんだよね。噴火で当時の人々のほとんどは亡くなったんだろうけど、作品はこんなに綺麗な状態で残ってるだなんて」


 今も、きっとこの作品のように地中に美しい作品が他にも残っているのかもしれない。それらを掘り起こすことが良いことなのかは、アタシには判断しかねるけど。


「絵美ちゃんさー」


 レンは作品を見るでも、アタシを見るでもなく呟く。


「なーに?」

「やっぱり、絵は続けた方がいいと思う」

「なによー、藪から棒に」

「だって、すげぇ楽しそうに話すし、作品見てるの好きそうだし。この前さ、平安寺とも描いてたけど、その時も楽しそうだったし」


 別に、ニューヨークでもう決着をつけたつもりでいた。でも、確かにこうして展示物を見ていると、ふつふつと沸き上がる感情もあるな。


「あっは。まー、考えてみるよ。もしまた描き始めるとしたら、まずは看板を描き直すところからかなー」

「それはマジでお願い!」


 レンの懇願ぶりに笑いながら、アタシたちは展示を余すことなく楽しんだ。


 作品を見終わって、お土産を選んで、アタシが外に出ようとしたらレンに呼び止められた。


「ちょっと待って、絵美ちゃん。駅はこっちじゃなかったっけ?」


 レンは反対側の出口を指差す。


「あ、言ってなかったっけ? お迎えを呼んでるから、こっちだよ」

「お迎え? な、何から何まで聞いてないけど」


 雨の日はドアトゥドアで帰りたいじゃん? 出口の前で傘をさして、こちらに手を振る『兄』に、手を振り返した。

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