◇絵の二……①
——レンが事件を起こした後、アタシはより一層熱心に絵に打ち込むようになった。あの子が好きだと言ってくれたから、本格的に描くようになった。だから、せめてもっとうまくなって帰るんだという気持ちを持って臨んでいた。でも、それも長続きしなかった。描くことがどんどん辛くなっていって、受験というきっかけを使って、辞める理由まで作ってしまった。正直、絵筆を握る気は今になっても起きない。でも、それより楽しいことを見つけたからそれでいいんだと、言い聞かせている真っ最中だ——
朝は苦手だ。早起きは三文の徳とは言うものの、積んだ徳でご飯は食べられないのだから、お金を払うのでもうちょっと寝させて欲しいと思う。そんなわけで大学入学二週間目にして既に堕落の一途を辿るアタシの生活は、散らかった部屋の十一時に始まりを迎えた。
「あの、本当に良かったんすか?」
レンの声が聞こえる。玄関だ。
「何が?」
ミッキーの声も聞こえてきた。同じく玄関。何やらお出かけの香りがする。もうちょっと眠っていたいけど、上体を起こしてなんとかベッドから足を下ろした。
「おはよー、あれ? どっか行くの?」
板張りの廊下をぺたぺた歩いて、出かける直前の二人に声をかける。レンはいつも通り、ミッキーはちょっと服装に気合が入っている。何でも似合うな、この人。レンも身長あるんだから、もっとお洒落すればいいのに。この寝ぐせで顔も洗わずに見送りに来たアタシも大概か。
「おはようございます、絵美さん。ちょっとお出かけに」
「え、映画を見に行こうと思って」
映画ねー。別に誰と行こうがレンの勝手だけど、誘われなかったことにちょっともやもやする。
「え、いいなー。アタシも行きたい」
故に、ちょっとだけ意地悪。
「そ、それは」
あー、本当に困ってる。額面通りに物事を受け取っちゃうのが、レンの良いところでもあり悪いところでもあるよね、マルチとか変な宗教勧誘とかに引っかかんなきゃいいけど。
「ごめんなさい、今日は男二人でお出かけしたくて」
「うん、ごめん」
レンは目を伏せた。
「あっは。いいよー、また今度ね? いってらっしゃい」
あくびをこらえて、手を振って見送る。さて、新しい朝が来た。今日はお休みだし、のんびりゲームでもしようかなー。あれ、でもミッキーが居ないなんて誰が今日の昼食をこさえるんだ? 疑問を抱いたまま、居間のふすまを開けると、わっ、と短い感嘆が漏れ聞こえた。ふすまの向こうにはフーミンがいた。ふむ、盗み聞きでもしていたんだろうか。
「お、おはようございます。あれ、美月さんと……あいつ、どこに行ったんですか?」
「おはよーフーミン。なんか、映画見に行くってさ。あー、お腹空いた」
「ふ、二人っきりで?」
「二人っきりで」
「ず、ずるい……」
フーミンは玄関の引き戸をしばらく渋い目で眺めた。
「絵美さん、ドーナツのお返しするんで、ご飯一緒に食べに行きませんか?」
「ドーナツ? あー、あのときの? 別に気にしなくても」
「いえいえ! 映画館って多分モールの三階にあるところですよね?」
「まー、ここらで映画を見に行くならそこ行くしかないからねー。ん? それとご飯に何の関係が?」
「フードコートなら、お互い好きなもの食べられますしね? この前マックで、季節限定のてりたま食べたいって言ってましたよね?」
「確かに言ったけどー」
「では、善は急げです。早く着替えて来て下さい!」
「別に慌てなくてもてりたまは逃げないよ」
「売り切れちゃうかもしれないですよ?」
「こんな奇跡的なタイミングでー? 分かった、分かったって、急ぐから」
フーミンの強引な供応の圧を受けて、アタシは慌ててお出かけの準備をした。今日は一日中ゲームの予定だったのになー、クエスト溜まっていく一方だなー。
「それじゃ、自転車をお借りしますね」
「はーい、行ってらっしゃい。晩御飯までには帰ってくるのよ」
母親のテンプレートみたいなことを言うママに見送られて、自転車に跨った。アタシが中学の頃に使ってたやつだ。サビサビで、あまり言うことを聞いてくれないロートル。
「てかさー、自転車で行くの大変だし、バスでも良かったんじゃ」
「次のバスでは間に合わないかもしれないので」
「待ってって。誰も逃げるわけじゃないのにー」
結構な速度でガタガタの砂利道を抜けて、家の敷地外へ。ビュンビュンと風を切りながら自転車を漕ぐフーミンは、まっすぐなように見えてどこか不安定で、でもその視野狭窄ぶりで突き進んでいく力が、まだあの子が高校生なんだなーと安心させてくれた。
下り坂でコミュニティバスを追い抜いて、アタシたちはモールへと辿り着いた。正直へとへと。文化系のアタシにはあまりの重労働だった。フーミンはと言うと爽やかに汗を拭い、間に合いましたね! と歯を見せて笑う。
「ちょっと待ってて下さい、今に出てきますから」
フーミンはモールのバスターミナルの脇にある自動販売機の裏に隠れて、手をこちらに振ってくる。どうやらアタシもそれに倣えということらしい。
「早く中入ろうよ、暑いよー」
「この時期ではまだ中に入ってもクーラーは利いていませんよ」
「それはそうだけどー」
遅れてやってきたコミュニティバスからぞろぞろと人が降りて来る。その中には、レンとミッキーの姿もあった。あー、なるほど。そういうことか。
「来ちゃえば一緒に見ざるを得ないもんね、おーい」
「待ってください、絵美さん!」
体を出して二人を呼ぼうとしたら、フーミンに後ろから肩を掴まれて制止される。
「いや、待たない方がいいのかな。や、でも、やっぱり待ってください。気付かれないように行きましょう。これ、つけて下さい」
フーミンは百均で売ってる安っぽいサングラスを差し出してきた。今度こそなるほどね。二人のデートは羨ましいけど、表立って割り込むほどの気概はない。とりあえず来てみたはいいものの、これからどうすればいいのか分からない。それで尾行。ちゃちな探偵ごっこみたいで面白い。
「あっは、じゃあ気付かれないように、距離を取りつつ追いかけよー」
「は、はい! それでは中に入りますよ」
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