◆月の二……①

——大学受験は挑戦することすらできずに終わって、新しい生活を歩むことを余儀なくされた。せめてぼくのことを誰も知らない街で、そう考えて縁もゆかりもない場所で仲居の仕事に就く。夏は暑く、冬は寒く、寮と職場の往復だけで一日が終わっては始まった。旅館という大きな器械で歯車のように摩耗し続ける毎日に不満はなかったと言えば噓になるが、あのとき確かにぼくは一人の命を救ったのだと、それだけを支えに生き続けた。そんな日々に終止符を打ったのは、家族が蒸発してしまったからだった——


 絵美さんとのじゃんけんに勝ってもらった、第一回トランプ大会の優勝賞品は朔葉わんわんランドというテーマパークのペアチケットだった。絵美さんはじゃんけんに負けた直後は悔しそうだったが、子どもの頃何度も行ったからべつにいいや、と急に勝負に対する熱が冷めたのか部屋に帰って行った。最下位になった芙美子さんは運否天賦に負けただけで勝負には負けていないと豪語して、景品の確認もせずに部屋に帰ってしまった。そして彼女と同率で最下位だった蓮介くんは何をしているかと言うと……。


「や、やっぱ無理っす! もう諦めるしか!」


 必死で課題を解き直していた。


「テストがあるなら言ってくれれば、大会の日程をずらしたのに」


 美陽さんはホワイトボードを拭きながら蓮介くんに言う。


「ふふ。それを忘れちゃうくらい、楽しかったんじゃないですか?」

「でも! 気持ちはわかるわ、私も久しぶりに家族で、こういうことして見たかったの! 姉が家を出て、両親が去ってしまって、絵美もニューヨークの学校に行かせちゃったから、蓮介が来てくれたとはいえずっと二人だったもの」

「ぼくも、とても楽しかったです。ここ数日の嫌なこと、忘れちゃうくらい。ああ、就活頑張んないと」

「結局思い出しちゃってるじゃないの」

「ちょ、ちょっと! 盛り上がっているところ悪いんですけど、助けてくれませんか、野々目さん」


 蓮介くんが課題をテーブルに目一杯広げて、頭を下げてきた。思い切りのよい懇願っぷりである。


「ふふ、いいですよ。古文ですね」


 国語は得意教科だった。古文は特に、昔の人たちの生活感や価値観の違いが見えて面白い。日本史の方が客観的な事実は分かりやすいが、古文の物語や日記はより主観的なのが良かった。ただ、当時と今とでは常識が違うから、それが古文の難しさを助長している気がする。文法や語彙を覚えるよりも先に、昔の日本の社会通念や生活様式を学んだ方が古文は読み易いだろう。とはいえ、それを明日までに網羅するのは不可能だ。だから、課題の要点だけまとめて解説してみた。


「あ、ありがとうございます。これで古文はどうにかなりそうです」


 しばらくかいつまんで話すと、蓮介くんはなんとなく理解してくれたみたいだった。


「そう? 力になれたのなら良かった」

「あの! オレ、野々目さんは先生とか向いてると思います」


 リビングで美陽さんに弱音を吐いてしまったのを思い出す。やっぱり聞かれてたのだろうか。蓮介くんの前では毅然とした振る舞いをしていたいと思っていたから、恥ずかしいところを見せてしまったな、と感じる。きっと、彼なりに気を遣っての発言なのだろう。蓮介くんは不器用ながら優しい子だ。


「そうかな? ありがとう」

「お世辞じゃないす、本気でそう思ってます」

「確かに。私も美月君は聡明だし、人にものを教えるのもうまいから、向いていると思うわ」

「勉強はできないですよ。高卒ですから」

「あら? 確かに教員免許なら大学を出てないと取れないけど、塾の先生くらいならできるんじゃないかしら?」

「そ、そうですかね?」

「野々目さんに教えてもらったら、きっとみんな点数よくなると思います!」


 先生か。考えたこともなかった。ぼくには人に何かを説く資格なんてないと思っていたから。


「この辺りは学習塾の求人も沢山あるし、応募してみてもいいんじゃない? なんなら、知り合いにも塾を経営している人がいるから、声かけてみましょうか?」

「い、いやそこまでしてもらうわけには」

「美月君は、もっと人に頼ることを覚えた方がいいわね。使えるコネは使うにこしたことないわよ」


 美陽さんはそう言うと、その学習塾の名前と場所を教えてくれた。背中を押してもらえてありがたい。そして、その期待に応えるためにもぼくがしなくてはならないことは一つだ。


「それでは、蓮介くんのテストの点数を一点でもあげなくちゃですね!」

「うん、ビシバシ鍛えて詰め込んであげて」


 喉の奥に異物を突っ込まれたような声で、ありがとうございますと蓮介くんは言った。


「それじゃ、根詰め過ぎないようにね、おやすみなさい」

「今日は色々とありがとうございました、おやすみなさい」

「お、おやすみ」


 居間に蓮介くんと二人きりになる。こうして二人になると、居間はかなり広く感じた。そうか、この家で二人きりは確かにちょっと寂しいな。


「そういえば、わんわんランド、誰と行くんすか?」

「思いもつかないね。良かったら、一緒に行く? テスト明けのご褒美と言うことで」


 蓮介くんに頑張ってもらうためにも、飴として提案してみる。


「い、いや、オレはいいすよ。ちっちゃい頃行ったことあるし。ほら、美陽さんも行ってたじゃないすか、恋人とか大切な人と行けって」


 それに対して絵美さんは、恋人と行くムードのある場所じゃないでしょー、とぼやいていた。


「レンくんだって、ぼくには大切な人だよ?」

「そ、そういうことじゃないですよ!」


 また目を逸らされてしまった。


「でも。ご褒美って言うんなら」

「何かな? ぼくにできる範囲のことでお願いね」

「一緒に、映画を観に行きたいです」

「映画、ですか」


 少し意外だった。人と進んで出かけるのとか、彼は苦手そうだったから。


「はい。その、一緒に見に行くほど仲いい友達もいなくて、それと、観たい映画の内容がどちらかと言うと男性向けだから、野々目さんにしか頼めなくて」


 映画か。本当に小さい頃、一度だけ家族で見に行ったきりだ。


「いいよ。その代わり、良い点数を取れたらね」


 別に、何点を取ったとしても構いやしないけど。ぜひ、映画を観てみたいから。


「うす。じゃ、じゃあ次は英語を」

「はい。この文章は——」

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