■蓮の二……①

——あの後、オレは友達を失って家族も失った。オレのせいで家族は世間に晒し者にされ、オレのせいで両親の仲は悪くなり、オレのせいで父は母に離婚を申し出て、オレのせいで母は精神的に弱り入院してしまった。母の妹である美陽さんにオレは引き取られたが、それから高校に入るまでまともに部屋から出ることすらできなかったオレを、何故か美陽さんは辛抱強く支えてくれた。今、オレは贖罪のチャンスを得たのだと思う。善人にはなれないかもしれないけど、せめて普通の人間になれたら、ちゃんと生きれたら、母は、平安寺は、美陽さんは、認めてくれるだろうか——


 板張りの廊下が軋む音がする。リズミカルで軽やかだ。それは次第に小さくなる。ここのところはいつも、この音で目を覚ましていた。ただ、まだまどろみに沈んでいたくて、枕にかじりつく。これはささやかな抵抗だ。やがて音は遠ざかっていき、階段の方へ消えていく。これは、野々目さんの足音だ。


 それから、遠くで電子音が小さく聞こえてくる。スマホのアラーム音。方角的には絵美ちゃんか平安寺だが、『姉』はこの時間に起きる必要が無いから、平安寺のものだろう。しばらくの時間を置いて、階段を降りてすぐの、洗面台辺りでの平安寺と野々目さんのやり取りが聞こえてくる。それから、また階段が軋む音が鳴って、足音が近づいてくる。一番大きくなったところで、音が止まる。そして、ノック。


「蓮介君、朝ですよ」


 野々目さんの優しい声がドア越しに聞こえてくる。


 ドタドタドタドタ!


 身に余る贅沢な朝だ。


 ドンドンドン!


 無駄な抵抗を止めて起き上がろう。


 ガチャ!


 今日も爽やかな一日が始まるんだ。


「レンー! 朝、朝、朝だぞー!!」


 のしかかる人一人分の重み。絵美ちゃんが俺の体の上をぴょんぴょんと跳ねている。


「ちょ、ちょっとは優雅な朝に浸らせてくれよ!」


 絵美ちゃんが帰って来てからは、確率でこういう騒々しい朝がくることもあるのが、難点だ……。寝ぼけ眼の視界に、オレらを見て微笑む野々目さんが見える。笑ってないで止めて欲しかった。

 美陽さんと交代で朝ご飯を作っていた以前と違って、品数と人が多い。まだ慣れないこの食卓の雰囲気にぼんやりとしながら、座卓の前に胡坐をかいた。


「今日は随分と早起きね、絵美」

「あっは、我が『弟』の始業式に合わせて頑張ってみたー」

「でも、蓮介くんは春期講習にも結構いってらっしゃいましたし、久しぶりの学校と言う感じはしませんね」

「や、そうすけど、なんだかんだだるいっす」


 座卓を囲むのは美陽さん、絵美ちゃん、野々目さんにオレ。平安寺の姿はなかった。


「芙美ちゃんなら、もう学校に行ったわよ」

「いやー、早いよねー。梅園なんて橋渡ってすぐなんだから、こんな朝早くに行かなくてもいいのにー」

「朝の空気が好きなんだそうですよ」


 オレとは真逆だ。朝は、あまり得意じゃない。


「早起きなのはいいことよね。絵美も、大学始まるんだから見習いなさいよ」

「えー、なるべく一限入れないようにするし、大学も近いからいいよー」


 絵美ちゃんはあくびをしながら、自分が使った食器を重ね始める。


「ごちそうさまー、もうちょっとだけ寝て来るねー」

「もう、言ったそばから」


 美陽さんの小言も上の空で、絵美ちゃんは台所に消えていった。


「まぁまぁ、絵美さんもあれで存外しっかりされていますし、学校が始まれば生活習慣は改めますよ」

「どうかしらね。あの娘、要領はいいから単位は最低限取って来るでしょうけど」


 美陽さんも食事を終えて食器を下げ始めた。慌てて納豆ご飯を口にかき込んで、オレも食器を下げた。学校が始まる。


 なるべく人が多い時間に登下校をするのが好きだ。人ごみがオレの存在をかき消してくれているような気がするから。朝の朔葉市は慌ただしく、手を繋いで歩く小学生たちもいれば、ヘルメットを着けて自転車でかっ飛ばすサラリーマンの姿もあった。多様なラインナップの生活が、通りに同居する。この瞬間だけ並行する銘々の人生。でも、オレがこの場にいる人々の顔を覚えていないように、みんなオレの顔なんて覚えてやしないんだ。その事実が心地いいのだ。花野橋の手前で左に折れる。包蓮荘から歩いて十五分、なんの変哲もない二つの校舎が顔を出す。県立朔葉高校、オレが通っている学校だ。


 張り出された新しいクラスを確認して、教室に入る。二年D組だ。もう既に新しいクラスメイトが沢山居て、人をかき分けながら自分の席についた。


「また同じクラスで安心した。よろしく、蓮田!」


 机に突っ伏していたオレの頭上から聞きなれた声がして振り返る。穏やかそうな笑顔、細い目。


「ああ、肥田君。オレも、良かった」


 自分の教室がどこかしか考えていなかったから、クラスメイトに誰がいるかなんて確認していなかった。肥田君は一年の時も同じクラスで、オレと学校で話してくれる珍しい人だ。正直、心細かったから安心している。


「なんか、元気そうじゃん。いいことあった? 春休みの間何してたのさ?」


 肥田君はしゃがみこんでオレの机に肘をつく。


「いいこと、かー」


 どちらかと言うと、春休みの間は辛かった。波風を立てないように生きようとしても、それよりも大きな波に飲まれてしまうことがあるのだと、思い知らされたからだ。


「隠しても無駄だぞ、俺、見たんだから! 蓮田が美人さんと前のカスミ入っていくの!」


 カスミは朔葉高校の前にあるスーパーだ。一緒に出掛けたことがあるのは、美陽さんを除けば野々目さんくらいだが……。


「美人さんって言ったって、あれ、男の人だぞ」

「いや、それは苦しいって!」

「本当だって、ほら」


 オレは証拠写真として、この前に無理やり撮らされた集合写真を見せる。包蓮荘の玄関前で並ぶ五人。


「うーん、この写真じゃ確かめようがないっしょ」

「そ、それは確かに」

「というか、これは何の集まりなの?」


 そうなるよな。不用意に写真を出してしまったことを後悔しつつ、説明する。


「オレ、叔母さんの家に住んでて、元々は二人で暮らしてたんだけど。春休み直前に唐突に下宿を始めるって言ってきて。それで、人が増えたんだよ」

「さっき言ってたこの人も?」

「そう。その人はオレたちの四コ上で、朔葉出身なんだって」

「へぇ。じゃあどこかで会ってたかもしれないな」

「どうだろ、高校卒業してからは地元を出て働いてたっぽいし」


 よく考えたら、野々目さんのことをオレは何も知らない。


「高校は?」

「梅園だってさ」

「え、超頭良いじゃん」

「なんだよなー」

「年上で頭良くて美人なのに男の人って、なんか危ない性癖に目覚めそうだな」

「人の同居人でどんな妄想してんのさ」

「それじゃあこの人は? 外国の人?」


 肥田君は絵美ちゃんを指差した。


「いや、この人はオレの従姉。純日本人だよ。春まで留学してて、帰って来たんだって」


 ただ、外国の人とは言い得て妙だと思う。金髪は染めてるからだけど、目鼻立ちとかそばかすとか、おまけに同じ言語で話しているのに言動を理解できないことがあるから、異文化交流している気分になる。


「へー、すっげー。今は何してんの?」

「大学生。えっと、朔葉大学」

「え、超頭良いじゃん」

「なんだよなー」


 なんか、急に劣等感が湧いてきた。


「で、この人が叔母さんでしょ? そんで、この娘は?」

「あ、えっと、その人は」


 肥田君は俯き気味に手を前に組むショートヘアの女の子を指差した。いずれ順番が回ってくることは分かっているのに、いざ平安寺のことを訊かれると言葉に詰まる。


「タメぐらいっぽいけどなー」

「う、うん。確か、同い年。な、もういいだろ?」


 スマホを回収して、鞄にねじ込む。


「なんだよ、急に。でも、そっか。なんか、新生活始まったって感じでいいな。今度、遊びに行ってもいいか?」

「い、いや、それは」

「ほら、出席取るぞー、席座れ」


 先生の入室と同時にチャイムが鳴る。助かった。じゃ、また、と言って肥田君はオレの後ろの席に座った。新生活か。確かに、生活の様式は大きく変わったのかもしれない。変化すれば成長しているとは思えないけど、確実にオレはどこかへ連れ出されようとしている。それが、良い場所であればいいか。窓の外では桜の花びらが、風になびいて散っていった。

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