□芙の一……①

——最も信頼していた友人の呼び出しに応じて訪れた駅にいたのは、わたしが最も恐れていた人だった。友達に裏切られたことに気付いて、絶望のまま、誰もわたしのことを知らない街で逃げ惑う。どれだけ逃れようとしても伸びて来る右手。凍てついた欄干。遠ざかる空、背中に走る痛み、冷たい水。希望も酸素もない、息ができない。陸に上がってからだってそうだ。誰も助けてくれなかった。ただ、全身が痛くて、寒くて、辛かった。もう手を差し伸べることも、差し伸べられることもない。そう思っていたからこそ、わたしを包蓮荘に引き込んだ手の温もりを忘れられないんだ——


 連綿と続く山々、水の張っていない田んぼ、一定のリズムで視界を過ぎ去っていく電柱。朔葉駅へと向かう電車から見下ろす街並みは穏やかで、春の日差しを浴びて輝いている。段々と建物の数が増えて、景色が過ぎ行くのがゆっくりになって、反対側の扉が開いた。乗客の数は少ない。あと一駅。息を大きく吸い込んで、絵美さんの言葉を反芻する。


「良い者かどうかは、アタシが決めるから。まぁ、自分の気持ちにさえ素直になれればそれでいいんじゃないかな」


 口角を上げて、目の端にしわを作って、柔らかい表情に反して芯の強い言葉だった。わたしを『妹』として迎え入れたいと思ってくれていることのうれしさ以上に、絵美さんの持つ超然とした様が羨ましい。わたしはずっと弱いままだ。そもそも、今置かれている状況も、わたしの弱さが招いた事態。だから、わたしはもう逃げたくない。


 電車はトンネルに入る。地下へと潜っていく。揺れが増して、電車が風を切るうなりのような低い音がする。暗闇の中で時折、無機質な光の線が照明によって作り出されて、そして朔葉駅のホームへ。これから毎日この電車に乗って高校に通うことを考えると、少し億劫になるけれど仕方がない。早く太陽の下を歩きたい。階段を上り、改札を出て地上へ。昼過ぎの朔葉駅周辺は暖かくて、心地良い風が吹いていた。


 まだ数度しか来ていないのに、すっかりと道順を覚えてしまった包蓮荘へと歩みを進める。ミスタードーナツに小洒落たカフェ、ビルの立ち並ぶ通り沿いに歩いて行くと花野橋に差し掛かる。この橋の手前か奥かで、朔葉市の景色は大きく変わる。駅がある方は都会側、橋の向こうは田舎側。なんでも、朔葉大学は元々は東京にあったらしくて、それが朔葉市に移転するにあたって新しく開発されたのが駅側の街だということで、橋を挟んで住んでいる人も景観も歴史も全然違うのだそうだ。そもそも、線路が敷かれた理由も朔葉大学の移転が契機らしい。


 わたしはどちらかというと橋の向こうの方が好きだ。わたしが生まれ育ったのが比較的都会だから物珍しさがあるということだけじゃなくて、それ以上に草木の香りや静かな町の雰囲気に居心地の良さを感じるからだ。こんなことを考えていると、また橋の向こうで暮らしたいという未練が蘇ってくるから、頭を振って橋を渡る。


 年季の入った数寄屋門、立派な日本家屋、表札のあるべき場所にデカデカと掲げられた看板。住人募集中、包蓮荘。ちゃんと、断らなくちゃ。包蓮荘の方々は好きだし、ご厚意に預かりたい気持ちはありますが、家族で相談して家から高校に通うことにしましたので、入居は致しません。ご報告が遅くなり申し訳ありませんでした。

何度も頭の中で文言を唱え直して、チャイムを押す。ピンポーン。


しかし、しばらく待っても反応が無い。もう一度、チャイムを押す。留守なのだろうか。恐る恐る玄関の引き戸をスライドする、相変わらず鍵は開け放しのようだ。三和土の靴の数は明らかに少なく、外出中なように見える。困ったな、確かに今日中に返事をするとは伝えているけれど、直接来訪するとは言っていなかった。


「——だからぁ! なんで先に言ってくれないのよ!」


 奥から声が聞こえてくる。美陽さんだ。それから内容までは聞き取れないけれど、あいつのぼそぼそとした声も。


「お邪魔します!」


 なるべく声を張って宣言してから靴を脱ぐ。板張りの廊下を歩いて声の方へ。居間かな。しかし、ふすまを開けても誰も居ない。縁側にかけられたカーテンが隙間風で揺れている。障子を開けて縁側に出ると、中庭で包蓮荘の人々が何やら楽しそうに揉めていた。


「ほーらー、早くしないと晩御飯が育たないよ?」

「どれだけスムーズに終わらせても、今日中には十中八九育たないよ」

「十育たないですって! 苗も種もないんですから」

「明日に希望を見出すためにも、組み立てだけでも終わらせるのよ!」

「明日にも間に合わないって!」


 声、かけ辛い。なんだよ、楽しそうにやってるじゃんか、あいつ。羨ましい、わたしだって美陽さんや絵美さんや、美月さんと楽しく庭仕事がしたい。目覚ましじゃなくて美陽さんに起こしてもらいたい、絵美さんに洋服を選んでもらいたい、美月さんと一緒にご飯を作りたい。ずるい。でも、我儘ばかり言ってはいられない。あいつとわたしは、違うのだから。


「あ、あの! な、何されてるんですか?」


 最後の勇気を振り絞って声を出す。包蓮荘の人々が一斉に『部外者』のわたしを見る。


「芙美子さん! いらっしゃっていたんですね、気付けなくてすみません」

「あら、芙美ちゃん! ごめんなさいね、今取り込み中で」

「フーミン、聞いてよー、このままじゃ向こう二か月は晩御飯が食べられないの。助けてー」


 一斉に包蓮荘の人々から言葉が放射された。どれに答えていいか迷いながら、様子を伺う。汗を垂らして笑みを称えるみんなの足元には、祖父母の家でよく見た、家庭菜園で用いる道具が並んでいた。あれ? あの支柱って。


「えと、そのイボ竹、植物を支える用の支柱ですけど、向きが逆です。尖った方が下です」

「あら、そうなの?」

「それと、一本一本刺しておくだけじゃなくて、横棒をつけたり筋交いを入れたりしないと、倒れちゃうと思います」

「いやー、ぐらぐらするとは思ったんだよねー」

「あの、そもそも何のお野菜を栽培するかちゃんと決めてますか? それによって支柱の長さも変えた方がいいですし」

「そういえば、まだ全く決まってませんでしたね。ご助言頂き、ありがとうございます。とても詳しいんですね、このままでは家庭菜園は徒労に終わるところでした。助かります」

「えっ、い、いやそれほどでも」


 美月さんに褒められて、ドキッとする。


「じゃあさー、今慌てて組み立てるより、またフーミンとホームセンターとか行って苗とか種とか選んでから庭作りした方がいいね」

「はい、ぼくもその方がいいと思います。時間も時間ですし、一度お片付けと行きませんか? せっかく芙美子さんもいらっしゃっているのですから」

「それもそうね、よし! 撤収! 向こうに納戸があるから、適当にぶち込んでおいて! ごめんね、芙美ちゃん。もうちょっと待っててくれる?」

「い、いえ。はい。あの」


 あくまでわたしは『部外者』か、あるいは『お客様』みたいだ。それは、嫌。


「良かったら、手伝いますよ? お片付け」

「ほんとー? それじゃ、靴履いてこっちに回って来てもらえる?」


 はい、そう返事をして玄関へと向かう。これで『お手伝い』くらいにはなれただろうか。何やってるんだろう、わたし。こんなことしてたら、別れが辛くなるだけなのに。

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