◇絵の一……①

——アタシは何も知らなかった。全てが終わった後で母親から夜中に電話があって、どうして時差のことが分からないのかなー、などとのんきに電話を取って、話を聞くにつれてまどろみは溶けていった。あのとき、レンが家で暮らしているという事実に喜んでしまった自分はどうかと思う。それから、段々とことの重大さに気付き、レンのことを支えてあげたいと思って、日本に帰るとママに言っても、駄目の一点張りだった。ようやく帰って来れて、レンがすっかり変わってしまっていたことには驚いたけど、帰国してからのここしばらくを思えば、これはこれでよかったのかもしれないなー——


 午後三時。朔葉駅の昼下がりは穏やかで、思い思いの時間を過ごす人々が居た。それらの顔を一つ一つ確認しながら歩く。


 本当に待ち合わせ場所に来てくれるかどうか、正直ちょっと不安だった。アタシだったらすっぽかしちゃうかもしれないから。でも、フーミンは確かに駅前の掲示板に寄り掛かるようにして立っていた。


「ごめんね、待たせちゃったかな」

「い、いえ。待ってないです」

「ここで立ち話も難だから、どっか入ろうか。そうねー、ミスド行こうよ、ミスド」


 スタバは席数少ないし、フードコートは出入り激しくて落ち着かないし、ミスドならコーヒーのおかわり無料だし。最適解だ。


「別に、わたしは大丈夫ですけど」


 ふむ。反応はあまりよろしくない。ドーナツが苦手なのか、それとも別の理由が? ちょっとだけ考えて合点がいった。


「お金のことは気にしなくていいよー、アタシがおごったげるから」


 確かに、高校生にはドーナツ一個でもお財布に優しくないよね。


「や、でも。悪いですよ」

「大丈夫だって。オールドファッションが待ってるよ」


 ほら、行こ? 駅前のビルに直進だ。


 ミスドは案の定、お客さんの数が少なくて過ごしやすそうだった。最近は全席禁煙になったから、煙草を吸わないアタシにとっては席数が増えてありがたいものだ。トングをカチカチさせながらドーナツを選ぶ。


「フーミンは何が好き?」

「フーミン? あ、えっとわたしは何でも」

「何でもねー、好きなの選んでいいんだよ?」

「好きなの、ですか? わたし、こういうお店は初めてで」

「そうなの? 珍しいねー。じゃあおすすめを適当に」


 もちもちしてておいしいやつ。砂糖がコーティングしてあってぱりぱりのやつ。中にカスタードが入っていて粉砂糖がかけてあるやつ。そして、ぱさぱさしてて甘さ控えめのやつ。あー、取り過ぎちゃったかも。


「いらっしゃいませ。お持ち帰りですか?」


 レジにドーナツを乗せたトレイを持って行く。


「いえ、ここで食べます」


 まぁ、ドーナツの数的には持ち帰る量に見えたんだろうけど。


「それではご一緒にお飲み物はいかがですか?」


 そりゃ、そうだ。ドーナツだけだと口の中がぱさぱさになる。


「フーミンはどうする? アタシはコーヒーにするけど」


 おかわり無料だからね。


「じゃあ、その、アイスティを」


 フーミンはおっかなびっくりメニュー表を指差す。


「あの、やっぱりわたし自分の分は支払いますよ」

「いいって、いいって。代わりに今度アタシが路頭に迷ったらお世話してくれればいいから」


 財布を鞄から取り出す健気な『妹』を制してアタシは会計を済ませた。ドーナツとホットコーヒーとアイスティとを乗せたトレイを持って、なるべく奥の方の座席を取る。


「それじゃ、食べよっか」

「はい、ありがとうございます」


 食事に感謝を込めてドーナツを頬張るフーミンは、傷一つない天真爛漫な女の子のように見えた。


「おいしいです! 生地はふわふわしてて、クリームが沢山詰まってて、甘過ぎなくてちょうどよくて、とても食べやすいです……、あの、なんで笑うんですか?」

「いや、グルメリポーターとか向いてそうだなって思って」


 饒舌ぶりに思わず笑ってしまった。この前一緒に晩御飯を食べたときもそうだったけど、本当においしそうに食事をする子だ。


「からかわないでくださいよ」


 口元を手で押さえるフーミンの顔が赤くなる。いいなー、素直で。可愛らしい。もう、ずっとこのまま『妹』のことを鑑賞していたい気持ちになるけど、アタシはアタシの役割を果たす必要がある。


「あのー、さ。フーミンは包蓮荘で暮らしていく気持ち、ある?」


 フーミンはドーナツを口に運ぶ手を止めて、急に真剣な眼差しになる。


「分からないです。包蓮荘の人たちはみんな良い人で、学校に通うにも丁度良くて、何よりわたしは今暮らしている町の居心地が悪くて。ただ、居心地が悪い原因はわたしがいじめられていたからで、そのためにわたしのことを知らない場所でやり直したいから梅園高校を受験したのに、まさか光見、いや蓮介、君がいるなんて思わなくて」

「まぁ、本末転倒だよねー」


 この子の事情はよく分かった。こちらから提示できるのは、包蓮荘で暮らす障壁となっているレンについて、考える材料をあげることだけだ。


「レンねー、あの後色々と大変だったみたいなの」

「大変、というのは?」

「これは、加害者からの理屈で、だから不愉快に感じちゃうかもしれないんだけど、話すね。あの後、あなたのことを突き落とした後、学校でのいじめの標的はレンに変わってしまった。トカゲのしっぽ切りみたいに、誰が頭ってわけじゃないけど、実行犯になったレン一人に罪を全て擦り付けてさ。まぁ、ここまでは正直レンの自業自得」


 コーヒーを飲み干す。話の流れ的に、このタイミングではおかわりも頼めない。


「問題はレンの両親、つまりはわたしの伯父と伯母にまで問題が波及してしまったこと。あまり詳しいことは知らないんだけど、伯母さんは専業主婦で伯父さんはずっと仕事ばかりしてたんだって。なのに、レンの問題が浮き彫りになった途端、伯父さんは伯母さんに厳しく当たったらしいの。お前の教育が悪かったから、こんな風になったんだって。それでレンのことも無視するようになっちゃって。伯母さんはそれでちょっと精神的に参ってしまって、レンに当たるようになって。こんな家庭が持つわけなくってさ、離婚しちゃったの」


 フーミンは真っすぐこっちを見る。眩しい視線だ。


「それで、うちで引き取ったんだって。家にも、外にもレンの居場所はなかったから。じゃあその間アタシは何をしていたのかって、海外の学校に通ってたから、何も知らなかったんだよね。帰って来て、久しぶりにレンと話して、びっくりしたよ。性格も背筋の角度もすっかり変わっちゃってたから。だから、うん、なんていうのかな。苦しんだから贖罪ができてるとか言うつもりもないんだけど、あいつはあいつで反省する間すらないくらい思い悩んでいるんだ。アタシ、今のあいつならフーミンとうまくやれると思うんだよね。それと、これはアタシの我儘なんだけど」


 ノートを広げる学生たち。タブレットでゲームをしている男の子。誰かの母親と思しき女性が悩まし気にドーナツを選んでいる。


「アタシ、ずっと兄妹が欲しかったんだ。一人っ子で、父親もいないもんだからさ。それが最近、一気に家が賑やかになって嬉しいの。アタシは欲張りだからさ、優しいお兄ちゃんとビビりな弟だけじゃなくて、素直で可愛い妹が欲しいなーって」


 アタシからできることは以上。嘘も偽りもなく、伝えられることは伝えた。


「わ、わたしはそんな良い者じゃないですよ。見栄張って強がってばっかりですし」

「良い者かどうかは、アタシが決めるから。まぁ、自分の気持ちにさえ素直になれればそれでいいんじゃないかな」


 残ったドーナツは包んでもらった。コーヒーのおかわりはいかがですか、と店員さんが来たけど、断った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る