◆月の一……②

 失業したまま春が来てしまった。美陽さんはせっかくご飯を作ってくれているのだからそんなに急いで仕事を探す必要はないのよ、と言ってくれるのだけれど、ぼくとしては早く手に職をつけたかった。所属感のない現状が辛く、所詮は社会からはぐれた生き方ができない小さな人間なのだと悟る。


 仕事を辞めたときはしばらく高等遊民を謳歌してやろうと思ったのだが、桜前線もいよいよこの町におしかけてきそうで、蓮介くんはそろそろ始業式で、絵美さんは大学の入学式を控えていて、ぼくだけ歩みが止まったままなんじゃないかと不安になる。不安になるけれど、居間で課題をこなしている蓮介くんを応援するために、料理を中断してコーヒーを淹れた。


「お疲れ様。お飲み物はいかがですか?」


 ノートにかじりつく蓮介くんにマグカップを差し出す。


「あ、ありがとうございます」

「砂糖もミルクもいらないよね?」

「あ、はい。お気遣いどうも」


 今の高校生はどんな勉強をするのだろう。そう思ってノートをちらっと見る。しかし、内容までは蓮介くんの髪に隠れて見えなかった。邪魔をしてはいけないし、台所に戻ろうとすると、蓮介くんが呼び止めた。


「あの、オレ、どうしたらいいすかね?」


 ここのところ、ずっと心ここにあらずな状態だったし、きっと芙美子さんのことだろうと思うが、少しはぐらかしてみる。


「うーん、ぼくは英語はあまり得意じゃないから、絵美さんに訊いた方がいいかもしれないね」

「いや、あの人、勉強はできるんだろうけど、感覚派で何言ってるのか分かんないところあるから……、いやそうじゃなくて」


 蓮介くんは顔を上げる。久しぶりに彼と目が合った気がした。


「その、平安寺のことで」


 真剣な眼差しだった。


「蓮介くんは、芙美子さんとどうなりたいの?」

「それが、分かんないんすよ……、いや、包蓮荘に住むことはないんでしょうけど、平安寺は梅園らしいから、高校は違うけど街ですれ違うこともあると思うし、そのたび避けるのも違うんじゃないかって」

「仲直りしたい?」

「仲直り、は多分できないと思うんです、取り返しのつかないことしちゃったし、許してはもらえないと思うし」


 蓮介くんは自信なさげにそっぽを向く。


「それは蓮介くんや芙美子さん次第だと思うよ。いずれにせよぼくから言えることは、過去は変えようがないってことかな」


 ぼくにだってこうじゃなければよかったのに、と思う経歴は幾らでもある。でも、それを受け容れて生きていくしかない。


「美月君! ちょっといいかしら!?」


 一体、彼らの間に何があったのだろうか。その事情に踏み入ろうとしかけたが、美陽さんが呼ぶ声で我に返る。


「もうしばらくしたら夕食だから、きりの良いところまで行ったらテーブルを空けておいて」


 美陽さんのもとへ向かうと彼女はスマートフォンを耳に当てていて、喋りかけようとしたぼくを制しながら、全然大丈夫よ、食べにおいでと言って電話を切った。


「美月君、急で悪いけど今晩のご飯は五人分用意してもらえるかしら?」


 美陽さんがいたずらっぽく笑いながら手をパーの形に広げた。なんとなく誰が来るかは見当がついた。


「芙美子さんの分ですか? 分かりました、適当に一品増やせばいいかな」


 大きな冷蔵庫を開いて、何を追加しようか考えた。


「急でごめんね、察しが良くて助かるわ」


 そういうと美陽さんは台所を見渡して、やったー、今日はみぞれ煮ね、と子供のように喜んでいた。


 それから絵美さんがたでぇまー、と気だるげに裏口から帰って来た。いつものように台所に入って来て冷蔵庫から麦茶を取り出し、ガラスコップにとくとくと注ぐ。


「おかえりなさい、欲しかったものは買えた?」

「ただいまー、いやもう薄っぺらいひらひらした服しか置いてなかった。なんで服屋って先のことばっかり考えて今を見れないのかしらねー」

「それは残念だったね。いっそのこと古着屋とか行ってみたら?」

「そうねー、ミッキーも一緒にいこ? ね、デート、買い物デート」

「ふふ、考えておくよ」


 絵美さんは豪快に麦茶を喉に流し込むと、横目でこちらを、正確にはコンロの上でふたを揺らす鍋に目をむけた。


「あっは、今日はみぞれ煮だ」


 目の横に皺を作って笑い、テーブル拭いてくるねーとレンジの横のスタンドから布巾を取って絞った。


「うん、よろしくね」


 はーい、と返事をして居間に消えていく。なんだか妹ができた気分だ。最初はつかみどころのない人だと思ったけれど――実際つかみどころはないのだけれど――、人懐っこくて接しやすい子だな、と最近は思う。


 絵美さんと入れ替わりで蓮介くんがやって来た。


「あ、みぞれ煮だ。これ運べばいいっすか?」

「うん、お願いできるかな」


 蓮介くんが料理を運ぶのに続いて、ぼくも食器を居間に運び出す。テーブルの上に並ぶ色とりどりの皿たちに、自画自賛になるけれど美味しそうだと感じた。ここ数年はいつも自分の分だけ作ってきた、誰かのために食事を用意することの楽しさを久しぶりに感じられただけで、包蓮荘に来てよかったな、と思うのだ。


 そんなちっぽけな悦予に沈みかけた心を引きずり出したのは、チャイムの音だった。ピンポーン、と普段なら誰も鳴らさない呼び鈴が久しぶりにその機能を果たす。


「悪いけど、誰か出てくれるー?」


 台所に隣接した美陽さんの部屋から、こもった声が聞こえる。ぼくが出ることにした。その方が良い気がした。


 玄関の隅に置いてあるつっかけに足を入れて、カギのかかっていない戸を開く。不安げに握りこぶしを胸に当てる短髪の女性がいた。案の定、芙美子さんだった。


「いらっしゃい、丁度良かったです」

「は、はい、お邪魔します」


 入ってくるように手を広げて促すと、彼女は季節に比して厚手のシャツの袖を揺らして、一歩一歩確認しながら入場した。


「うげ」


 前方と後方の双方から僕を挟むように聞こえてきたのは、不安とか後悔とか、そういったネガティブな感情をえずく音だった。


「あ、いや、これは、その」


 振り返ってないからどのような表情かは分からないが、多分蓮介くんは口をふさぎながら喋っているからこもった声になっているんだろうな、とは推測が付いた。さすがに、うげ、はないよな。


「あの、やっぱりわたし、帰ります!」


 身を翻そうとする芙美子さんの手を思わず掴む。


「ご飯だけでも食べて行ってください。今日のはとってもおいしくできたから」


 蓮田家みんなの大好物もあるし。


「の、野々目さんが作ったんですか?」


 美陽さんに借りたエプロンを見せびらかす。


「うん、一緒に食べよ? 冷めちゃいますよ」


 多少は強引な方がいいのではないかと思い、手を引っ張って笑ってみせる。


 彼女は僕の背後と僕の目を交互に見て、


「た、食べるだけですから」


 ほんのりと頬を紅潮させて言った。平安寺さんの後ろで、開いた戸の向こうから春の青い夜がきらめいていた。

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